足利市にある金山清行の石造物 3

1 石尊山(田島町・名草中町)赤萬字石祠

2 本覚山(名草下町)扶桑教大神石祠 明治10.5

3 本覚山 第壹世管長宍野大我報恩碑 明治35.9

4 女浅間山田中町)金山提箸翁碑  明治41.12

 

明治35年9月(1902)建てられて120年経つ神剣。碑文は神道扶桑教管長 宍野健丸の筆。

翌36年(1903)で金山清行80才。続く37年で宍野半の没後20年となるのを前に、清行が私費で建てた報恩碑。

 

裏面に「第二世管長宍野健丸  権大教正提箸清七建」とあり、行名を使っていない。

 

足利町に建てられたものを、のちに名草岡成の山中に移転。この地が選ばれた理由が気にかかる。

 

 

神剣のデザインが採用された理由は、宍野半から清行に贈られた和歌によるものか。(『金山清行小傳』)

 

富士の山中から仏教色を薙ぎ払った宍野半の象徴が神剣なのだろう。

 

 

草薙剣天叢雲剣)は、スサノオヤマタノオロチを退治した際に尻尾から出たという。スサノオよりアマテラスに献上され、ニニギの天孫降臨で地上にもたらされた神器。

 

ヤマトタケルの東征にて自動で草を薙ぐ機能が発覚した、まさに神器。

 

 

『続足利の伝説』第四十五話 母衣輪神社など、足利周辺にある寺社の縁起では、東征でヤマトタケルが足利に訪れたとしている。このとき草薙剣を佩いた姿が見られたことになる。

 

(八木宿鎮守 母衣輪神社にある石碑文)

 

西暦110年に足利市福居町八木の母衣輪神社、足利市大月町の天道山に登り鏡岩を見る。日光市足尾の庚申山を訪れる。帰路では群馬県前橋市の産泰神社、栃木県佐野市赤城神社の地にて宿泊する。

 

東征帰路の尾張国でミヤズヒメを娶り草薙剣を預ける。西暦113年にミヤズヒメが剣を祀ったのが熱田神宮

熱田神宮では草薙神剣を御霊代とする天照大神を祭神「熱田大神」としている。

 

つじつまの良い情報だけを集めると上記のような話になるが、特に『続々足利の伝説』の第七話 天道山は秀逸。

ヤマトタケルが天道山の鏡岩で鏡を見つけて、そこに祠を建て鏡を祀ったという話から始まり、江戸時代になり鏡が江戸へと持ち出されると江戸にて天気の異変が起きたという。

 

 

大月町の天道山からも近く、母衣輪山神社石祠があり、北に産泰神社の古社がある本覚山は草薙剣を祀るのに適していたか。

 

 

移転の時期がもう少し遅かったなら、足利市本城二丁目にある明石山の共同墓地に移されていたかも知れない。

 

 

 

 

 

 

余談

https://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/gaiyou/ashikaga-emblem.html

市章(大正3年1月14日制定)

足利市の市章の画像

 日本最古の書物『古事記こじき)』に出てくる『倭建命(やまとたけるのみこと)』の御子(みこ)、『足鏡別王(あしかがみわけのきみ)』が足利市の地を治めたという言い伝えから、古鏡(神鏡)を輪郭にして中央に『足』の文字を配しています。

 大正3年1月14日、町章として制定したものを、大正10年1月1日の市制施行後も市章としています。

 

 

町章制定から108年。

「み」を取ったら鏡が割れてしまうだろうという人もいるが、その発想はなかった。

 

 

足利市月谷町の山から見つかった約1000年前に日本で作られた銅鏡。平安時代後期の作なので、京でのちの八幡太郎が産まれたころか。

 

 

中央の穴にひもを通して輪を作り手を入れたとすると、八枚花弁の花のなか、上下に瑞花・左右に鳳凰

 

 

蛇足

静岡県 富士山本宮浅間大社の沿革は、紀元前27年頃富士山の噴火を鎮めるために山霊を祀る。西暦110年ヤマトタケルノミコトが山宮浅間神社の地に祀る。806年坂上田村麻呂が現在地に遷座

 

山梨県 北口本宮冨士浅間神社は、西暦110年ヤマトタケルノミコトが大塚丘(おづかやま)で富士山遥拝をしたことに始まる。

 

ヤマト王権の全国統一の様子がヤマトタケルノミコト伝説だという。

 

 

 

六世紀ではあるが名草にもヤマト王権前方後円墳体制の影響。

 

 

 

ホタルの自生地のように場所によるし、流星群ではない流れ星くらい目立たないが、古墳がある山を歩いているだけで発見があったりする。

足利市にある金山清行の石造物 2

 

1 石尊山(田島町・名草中町)赤萬字石祠

2 本覚山(名草下町)扶桑教大神石祠 明治10.5

3 本覚山 第壹世管長宍野大我報恩碑 明治35.9

4 女浅間山田中町)金山提箸翁碑  明治41.12

 

 

 『栃木県の中世城館跡』(1982)の本覚山城略測図を見ると、南の山に富士嶽神社を示す印があり、麓から社殿の近くまで破線が書かれている。

 

 

神社の祭りは屋台が出るほど賑わいがあったという。

 

金山清行が私費で作った報恩碑を足利町からこの山へと移転したので、そのことも参拝者を増加させたか。

 

信仰が失われて久しく、本覚山への登山道も藪に飲まれて消失しているので地元の人も登らない山となっている。

 

従是仙元宮入口

 

山中の富士嶽神社(旧仙元宮)は完全に倒壊して屋根瓦が散乱している。

 

 

屋根が土に返ったことで十数年前には見えなかった火鉢が出て来た。参籠で暖を取ったり、魚を焼いて食べていたか。

 

薬缶と茶碗などが落ちている

 

 

神道扶桑教の前身、扶桑教会の石祠。(明治10年

 

 

扶桑教大神の額。

富士山は神体山ではなく、修行の場になる。

 

 

台石正面に教会議事 教導職 金山清 同 高崎市蔵とある。

 

浅間神社にある「金山提箸翁碑」の撰文は、扶桑教大教正 高崎市蔵。

 

 

「かすならぬ吾さへ神の道しりぬ 君を教の祖(おや)とたのみて」

高崎市蔵から贈られた和歌から、清行への敬意を感じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

余談

扶桑教大神石祠の下に奉納された富士型御影は、モルタルで富士山の形を作り、木山(五合目以下)に鉱石をタイルのように張り付けたもの。

 

この石祠が建てられた明治10年は、古河市兵衛足尾銅山を買収したのと同じ年。

豊かな鉱脈の発見や採掘の近代化によって、足尾銅山明治17年に日本一の産銅量となる。

 

 

足尾銅山の坑道に祀られた山神社の祭神は「大山祗命・金山彦命・金山姫命」の三柱。銅山関係の信徒が金山神と清行をかけて奉納したものか。

 

 

 

 

蛇足

江戸時代の足尾は日光領、現在は日光市足尾町

足尾鎮守は日光中禅寺より勧請した妙見宮(現磐裂神社)であり、妙見宮を庚申山の登拝口とした。

 

 

傳十郎(金山清行)奉公先が上彦間村の豪農五味田某家。

五味田氏の名が、日光庚申山の社務所が発行する絵図に見られる。この社務所は火災で焼失し現存しない。

 

 

 

庚申山の山頂付近の古い名前は「富士 仙元」であり、実際に富士山を眺めることが出来るが雲で見えないことが多い。

 

 

下野国誌』(下野新聞社 1968)には、 庚申山は「安蘇郡足尾郷赤岩と云う所にあり」と書かれている。

 

 

 

 

 

 

足利市で見る金山清行の石造物 1

 

1 石尊山(田島町・名草中町)赤萬字石祠 明治6年

2 本覚山(名草下町)扶桑教大神石祠 明治10年

3 本覚山 第壹世管長宍野大我報恩碑 明治35年

4 女浅間山田中町)金山提箸翁碑  明治41年

 

石尊山には大正時代まで人が住んでおり、御祭りは賑わったという。山頂に石祠と明治6年の水盤、北東の山麓にある大寶寺が奉納した石仏あり。

 

大寶寺の山院号は天王山(いなりさん)三品院(さんぽんいん)であり、阿弥陀如来三尊佛を御本尊としている。

石尊山・いなり・阿弥陀三尊というパワーワードがそろい、人が住む平地(城跡)があるという好立地。

 

 

城跡の南西にあり、名草村を向いて建つ石祠。

東の本覚山に向けているともいえる。

 

台石正面に「大先達 荒井仰行真 大願成就 先達 金山清行」とあり、左右裏面には名草村講中・助戸村講中・南猿田・北猿田の講員および世話人の名が刻まれる。

 

上野国邑楽郡傍示塚村の荒井仰行は、両毛で活動した大先達。この石祠が作られていた頃に、静岡県浅間神社宮司である宍野半が富士一山講社を設立。この後、荒井仰行の講社も富士一山講社を経て扶桑教の傘下になる。

 

「金山清行」と行名が刻まれる石造物は、足利市では石尊山にある明治6年の石祠のみ。

 

年号の前にあるのは北猿田村の石工である高瀬家か。金山清行の叔父も高瀬姓なので、どちらの高瀬氏なのか不明。

 

 

余談

荒井仰行の富士登山三十三度大願成就碑(萬延元年)が、富士山北口一合目 鈴原社の手前にある。

 

明治6年の大願成就よりも13年早い。

 

背景の左に見える白い紙垂は、一合目鈴原社の鳥居。

 

宿坊 小澤久大夫とあり、足利大月村を旦那場としていた御師の家を、初代荒井仰行が利用していたとわかる。

 

万延元年は庚申年なので、宿坊も石工も大変な年。

 

 

 

蛇足

足利市田中町の女浅間神社には、荒井仰行や金山清行と面識があった二代目正田正行の「水行五年 大願成就碑」(明治28年)があり、水行の内容と頻度が気にかかる。

 

 

上記の石碑が建てられた前年日清戦争が勃発すると、金山清行は渡良瀬川で祈請の水行をしている。厳冬でも行う姿を見た世人は、清行を「水行」といったらしい。(『金山清行小傳』)

 

寒い日に渡良瀬川で身を清めているお爺さんがいるなど、現在なら通報案件。やはり戦争は怖い。

 

 

 

足利市本城町の富士講碑

足利町の北部(足利市の北部ではない)本城村を昔は「あけしの里」といった。

 

本城一丁目に、山頂の岩を富士山に見立てた山あり。本城では富士山と呼ぶ。

 

昭和38年から始る「足利駅土地区画整理事業」により、足利学校の東にある善徳寺の墓石(3408基)が本城一丁目に移転した。移転場所の不公平が出ないように考慮するとともに、要望にも出来る限りの配慮をしたという。

 

 

  

 

 

本城富士と大先達 正田正行(1786 - 1857)の江戸時代に建てられた墓石。戒名は冨翁正行。元から本城墓地にあったのか、市街地開発により本城富士を見上げる場所に移転したか。

 

 

扶桑教権少講義 金井鷲蔵の墓碑(大正元年)も見る。

 

月参講の元祖は、上州邑楽郡館林の直山明行。明行は静岡県富士宮市人穴富士講遺跡富士登山六十六度碑(元治元年1864)を建てている。

 

 

萬字講・月参講・助戸参明講・川上講・大月村の村上講も扶桑教に属した。富士一山講社が設立した際に、これらの講社をまとめたのが金山清行。信徒曰く金山講社。

 

 

 

 

 

江戸時代の大先達や明治時代の少講義の墓碑が、足利を見渡す本城富士の近くに建てられているのは、移転による偶然か。

 

 

 

 

 

余談

富士一山教会講社の板マネキが足利市大月町にあり。樺崎町には奉納額もあるが、こちらは墨が薄くなり読み取れないのが残念。

 

 

 

 

富士山信仰に篤い親が、富士男丸・亀男・富士松など子供に名付けるのは少しかわいそう。初山祭の団扇に書くにはいい名前かもしれないが。

 

現在でも漢字で誤魔化せるミッキー(ミツキ)はいいとして、ミニー(ミニイ)はかわいそうだと思うのと同じように、富士山にまつわる名でも違和感のない名前がよかったと思ったかも

 

 

 

善徳寺本堂の天井板絵(126枚) 富士山に落款。

二代目 正田正行や金井鷲蔵も見上げたか。

 

126枚ある板絵を組み合わせれば、法話も広がりそう。

 

天井板絵には、日清戦争(明治27-28)の戦勝を祝う気持ちが込められている。

 

 

 

 

 

 

 

金山清行 山林斗藪の奇人

金山清行(1824‐1909)は江戸末期から明治時代に、赤萬字講や扶桑教などで活動した宗教家。富士登拝七十五回。外八海修行。

 

文政7年 近江彦根藩領の下野国安蘇郡上彦間村塚越生まれ。塚越は小字ではなく屋号だという。

幼名 傳十郎 通称 提箸清七 雅号 木花

上彦間村の提箸本家には、先祖が天皇に箸を献上して(寛和2年)提箸性を賜るという家伝あり。

 

根本山神講の先達「飛駒山大学院」に入り、法印に就て学ぶ。(大学院は根本山の本山修験)

 

16才の傳十郎は、病を患い苦しむ母親のために日光男体山に登籠して平癒祈願。日光二荒山神社への登嶽参拝五回。

 

文久3年 母が他界、諡(おくりな)八重櫻媛命。両親の葬儀を神式で行う。祖霊を改葬し檀籍を抜けようとして提箸家氏寺の住職とトラブル。

 

私邸内に浅間祠を建てる。田沼・佐野・下彦間・梅園・閑馬・名草助戸に小祠を建て説教所を設ける。

 

上彦間村要谷山城跡の浅間神社に参籠殿を造営して祭典を行う。(要谷山にある富士山に見立てた巨岩に浅間宮石祠あり、手前が平地になっている。)

 

上野国邑楽郡傍示塚村の赤萬字講 荒井仰行の門人として、明治6年に大願成就。

 

富士一山講社長 宍野半が、上彦間村に清行を訪ねて来る。

 

明治7年 神祇なる世になったと表明するため、宍野半や同僚数人と共に富士山頂での廃仏毀釈を行う。この頃、宍野半が清行に贈った和歌「むらくもの つるきぬきつつ くさはらい むかひ火つけて あたら残さん」(日本武尊伝説+惜しいが残さない)

 

明治8年 富士一山教会 教導職。小社長。

同年 富士山中宮小御岳神社で火災。御師注連澤興麿と共に現場に走り、清行が炎中に飛び入りご神体を運び出す。

 

明治9年 登山者のために富士山中道の開鑿を発願。

 

明治12年 清行設計の扶桑教会足利別院が認可される。同14年 家富町に竣功。

 

明治13年 富士山中道に金山清新道を開山。

「道にこるこゝろまことの一すちに ふみわけ初めし富士のなかみち」と巨岩に刻む。

 

明治22年 上彦間村を飛駒村に改称。現在の佐野市飛駒町。)

 

明治?年 富士登山七十回の記念碑を富士北口吉田に建てる。

 

明治33年 扶桑教足利別院内に薬院を開設。富士山の仙草を使った薬湯を一般にも開放。

 

明治35年 足利町に「第壹世管長宍野大我報恩碑」を建てる。後に名草岡成山内へ移設。

 

明治42年86才没。骸、赤石山上の地に永く冷かならんとす。(赤石山は足利町北部の山)

同年7月8日 山辺村大字田中の女浅間神社にて、顕彰碑「金山提箸翁碑」の除幕式を行う。

 

              

 

大正2年 清行の子、相模国一之宮 寒川神社禰宜 提箸亀男が『金山清行小傳』を発行(非売品)祖前に供える。また、清行の先輩知友の宍戸璣・稲葉正邦・田中頼庸・宍野半・新井荒行・小澤彦遅・富士玉山・田邊調・碬稲綺求諸氏の霊前へ捧げる。

 

 

 

 

大正10年 足利町が足利市となる。昨年で市政100周年。

コーエーテクモホールディングスとコラボした100周年記念事業ポスター(信長の野望・新生)で交通安全を推進。101年目の今年は山林火災防止のコラボポスターを制作。

空気が乾燥する季節、登山者の不注意による山火事が無いことを祈る。

 

 

 

 

 

 

 

 

余談

栃木県日光 鹿 一週間で消失

科学雑誌『Scientific Reports』掲載(2022年9月30日)

https://www.nature.com/articles/s41598-022-20465-4

 

 

 

 

 

 

 

 

 

丸登講社の富士講碑

画像左上の足利市板倉町 冨士嶽神社から9.2Km、足利市島田町に丸登総社の富士塚あり。

 

左側の赤っぽい富士登山三十三度碑が明治15年8月、右の大きな石柱が富士登山五十度碑で明治33年7月に建てられたもの。

18年間に十七度の富士登山が行われているので、単純に考えた場合(明治15年の33年前)嘉永2年には丸登講を作る井下田登行が富士登山を始めていたか。

 

 

江戸時代から富士講の行者であった井下田登行忠明は、明治3年の神仏分離の時に、村社 稲荷大明神神職になる。

 

稲荷神社の氏子は丸登講の講員。登行の稲荷神社は富士守稲荷社の代わりにもなったか。

 

 

 

 墓地の富士講

富士塚近くのお寺に、井下田登行の墓がある。

 

正面に諡(おくりな)が刻まれた墓碑の裏面には「丸登講社中 / 嶋田村中建」とある(明治37年

 

明治維新後の神仏分離により神職となり、明治15年堀島村廃止により島田村へ。明治29年梁田郡廃止により足利郡へと変わってゆく時代に村社の神主を務めた井下田登行。

 

神社や富士塚に建てられる顕彰碑よりも、墓碑はかたずけられてしまう可能性が高いかもしれない。

 

 

余談

登行没後の明治44年に現在地へ遷座した村社 稲荷神社。

 

境内にある湯殿山石祠には、三十三度と刻まれている。

 

山形県湯殿山まで三十三回も訪れるのは大変。

記念に石宮を建てるのも納得。

出羽三山湯殿山を祀る、足利の湯殿山でも疲れそう)

 

 

足利から富士山 高速道路を使って3時間20分(234㎞)

足利から湯殿山 高速道路を使って4時間20分(370㎞)

 

 

 

 

稲荷神社の社殿にある、日露戦争へと出征する軍人の武運長久を祈願した奉納額(明治38年

 

突貫ごり押しで戦う日露戦争の映画『二百三高地』を鑑賞するだけでも恐ろしい。他国で戦い勝利で終えた戦争。

 

対露戦の冬季訓練(明治35年)をもとにした映画『八甲田山』も痛ましい。雪山は怖い。

 

この時に八甲田山の雪中行軍を成功させた弘前三十一連隊も、日露戦争二百三高地で全滅している。

日本で凍死 or 異国の激戦地で戦死。戦争は怖い。

 

 

 

 

 

となり町の除厄姫稲荷神社にも富士塚

こちらは塚という感じはしないかも。丸登講社のフジモト社中(足利市藤本町91番地)

 

 

上野国との国境であった矢場川。姫稲荷神社の旧称が上野想社。

 

 

丸登講の冨士嶽石祠(足利市板倉町 冨士嶽神社)

富士吉田市にある富士講のマネキに「下野國梁田郡堀嶌邨 井下田登行忠明 講社中」がある。

『富士吉田の富士山信仰用具調査報告書』第2分冊 2/3   

https://web.fujinet.ed.jp/div/hakubutsu/pdf/fujisanshinkouyougu2_down_part2.pdf

上記の二つは同じURL。16/110ページのNo 915

 

梁田郡堀島村を分割して、堀込村・島田村に改称したのが明治15年5月20日なのでそれ以前のマネキ。

 

足利市島田町439-2の富士塚に、井下田登行の富士登山三十三度碑(井下田忠明碑 明治15年8月建)があり、それには現代風の講印が使われているので、上記のマネキは明治初期のものと思われる。

三十三度碑の裏面にある社中のひとつに「足利郡板倉村社中」あり。

足利市板倉町の冨士嶽神社には、マネキと同じ丸登の講印を使った冨士嶽石祠がある。

 

 

板倉町 社務所のような外観の社殿と、喜寿を祝って奉納した石鳥居。

 

冨士嶽石祠(本社)

 

台石正面にある丸登の講印(旧タイプ)

 

破風部にも丸登の講印あり

 

山の北斜面に建てられた富士浅間神社は、社殿奥の扉を外すと冨士嶽石祠が見える作りになっている。

社殿内の祭壇から石祠に拝礼すると、その延長線上の富士山に向かって祈りを捧げているという趣向。

 

冨士嶽石祠の背後にある山の南斜面には「富士山の見える丘」と称する富士山を眺めるスポットあり。

太田 金山は良く見えるが、富士山は気象条件次第。

 

必ず見えるわけではないので、山陰の神社から拝礼しても変わりない。

 

 

石祠や石鳥居の額は「冨士嶽」であるが、社殿内に富士浅間神社とあるので改称しているようだ。

        

明治15年には、富士登山を33回している丸登講社であったことを考えれば、「冨士嶽」から旧称に戻したのかも知れない。

 

 

 

 

 足利市にある神社について、Googleマップに投稿されていた田中小荷さんのクチコミが消えていて、もったいないオバケが出そう。心機一転って感じなのかな。