足利市樺崎町馬坂の浅間神社と、陸軍飛行第244戦隊3式戦闘機「飛燕」の話

足利市樺崎町馬坂の浅間神社

 

 

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国道293の越床トンネルの手前にある馬坂の浅間神社は、藪に飲まれて近寄れない状態になっている。

 

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境内の下草が手入れされていた一昔前の写真。

 

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ここで目を引く「富士登山三十三度修行」の大きな石碑は、神道扶桑教大講義 阿由葉忠七叟(翁)講社の少教正 松崎善吉が明治33年に建てたもの。(北郷村利保の忠七さんは、この時すでに故人)

 

山梨県富士河口湖町の「富士博物館」には、松崎善吉が御師宅に奉納した食行身禄像が展示されていた。身禄像の厨子には「明治23年12月15日 足利郡北郷村椛崎 少教正 松崎善吉 惣講社」の銘がある。(河口の御師宅を移築し、昭和29年に開設された富士博物館は2019年10月から現在休館中。)

 

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石の鳥居は足利学校の門前、昌平町の人が寄進。

 

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欄干石柱のひとつは足利市通6丁目の日本茶専門店 岩田園さん。

 

境内にある石碑には、安蘇郡の赤見村や田沼町(共に現佐野市)の寄進者名が見られる。馬坂や越床の地名からも、当地と安蘇は往来が盛んにあったのだろう。

 

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社の近くに樺崎八幡宮あり。

関東ふれあいの道(マンサクの花咲くみち)」道標。

 

長谷川角行の後継者、四世の月玵や五世月心が足利の大月村を訪れた際、出流観音(栃木市出流町)へ詣でる道中、樺崎で山越えしていると思われる。

 

坂東三十三観音第十七番札所 出流山満願寺への巡礼者も多く、かつては多くの辻に出流への道標があったという。

足利の鑁阿寺でも鎌倉時代正安元年(1299)に建てられた本堂(2013国宝指定)の外陣が、夜間は巡礼者に開放されていた。今でも内陣と外陣を仕切る戸をはめ込む溝が残り、御護摩や御祈祷で本堂に上がると外陣の様子がよくわかる。

 

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樺崎八幡宮の東、赤坂にある文字が見えない道標。

〈←樺崎八幡宮  城山・塩坂峠・越床峠→〉この道標を見ても、往来に使われることが無くなったルートの状況がうかがえる。城山とはかつて樺崎城があった山。

 

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山を越えた先にある佐野市寺久保町の熊野神社には、明治期に建てられた富士講先達 荒井仰行門人たちの石碑、小御嶽石尊石祠(冨士山小御嶽神社)、高尾山石祠などがある。(全く気が付かなかった青いハンガーは不明)

 

 

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石の形から烏帽子岩と思われる碑には、手印を結んだ食行身禄の彫刻。門人たちの碑は左卍なのに対して、この碑は右卍。身禄のモデルは仰行か。

 

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佐野側のふれあいの道は昨年の台風19号洗堀されているようだ。この台風の影響は、太田市の自動車メーカーから山道まで被害は甚大。

 

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熊野神社の南、足利と安蘇とで信仰があった鳩峯山神社の石灯篭

 

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左に行けば鳩峯山神社 右に進めば山を越えて足利

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足利市樺崎町馬坂にある石碑「陸軍中尉 永井孝男戦没之地」の話

 

昭和20年2月10日午後 足利郡北郷村大字樺崎馬坂の山中に陸軍飛行第244戦隊みかづき隊の永井孝男少尉が操縦する3式戦闘機「飛燕」が墜落した。

 

この日、群馬県太田市の「中島飛行機太田製作所」を攻撃目標(作戦番号29)としてマリアナ諸島から118機のB29爆撃機が発進。これを邀撃するため出撃した戦闘機であった。

 

私が聞いた話は「城山(ジョウヤマ)に米軍機が落ちた、みんなで竹槍を持って登った」というもの。実際は日本の陸軍機であり、墜落現場に小さな慰霊碑が建てられた。

 

「大月の山に金属片が散っていた」という話は、飛燕が山の木に当たっていったのかも知れない。

 

 

マリアナ諸島から出動した118機のうち、太田製作所爆撃84機(71%)未帰還機12機(10%)損傷機29機(25%)であった。

 

この日B29同士で接触事故を起こし、群馬県邑楽郡邑楽町秋妻に墜落した2機がある。陸軍第1練成飛行隊の倉井利三少尉が4式戦闘機「疾風」でB29に体当たり2機撃墜という話はここから来ているのだろう。

 

同年4月11日 倉井少尉を含む陸軍五人の感状上聞(軍功を天皇に報告)は、12日付の新聞にて「B29体当りの五神鷲」として英雄報道されている。倉井機が墜落した栃木県下都賀郡野木町佐川野には、現場畑の所有者が建てた倉井少尉の慰霊碑がある。

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編隊を組んで飛来するB29。接触事故を起こして墜落する2機の様子は編隊僚機によって確認されている。

 

この日、太田製作所への爆撃を終えて帰途するB29を海軍の戦闘機が1機撃墜した。アメリカ側の資料ではこの日の未帰還機12機の内訳は撃墜5機、その他7機。戦闘機による撃墜で詳細がわかるのは海軍機による一件のみ。群馬県邑楽町にB29の残骸あれば、陸軍がこれを最大限利用するのは必定。平将門を呪殺した実績がある茨城・栃木、「必墜の攻撃精神が当たりB29が事故を起こした」ともいえる。

 

 

樺崎町馬坂に永井少尉機が落ちるのを目撃したという話を私は知らない。永井少尉と同じ244戦隊所属、とっぷう隊 梅原三郎伍長機の目撃談から、永井少尉機の墜落状況を想像する。

 

同日、茨城県結城郡石下(現常総市)上空にてB29に体当たりした梅原伍長の「飛燕」は、市街地への墜落を避けるように方向転換して茨城県筑西市大塚の雑木林に墜落した。永井少尉も足利市街地への墜落を避けるために、馬坂の山中へ墜落したのではないかと考える。

 

筑西市大塚にある慰霊碑「故陸軍伍長梅原三郎戦死之地」には「同月23日防衛総司令官稔彦王殿下より感状を賜り同年3月8日畏くも上聞に達せられる陸軍航空曹長に昇級」とあり、特別攻撃により二階級特進されたことがわかる。

 

永井少尉の碑に「陸軍中尉」とあるのは一階級特進後の階級を碑に刻んだものだろう。

 

 

足利市の「百頭空襲」

昭和20年2月10日午後 群馬県邑楽町にB29が墜落した現場から北に1キロ、足利市百頭町に250キロ爆弾83発と数多くの焼夷弾が投下され33名もの尊い生命が失われた。これは栃木県内の空襲では同年7月12日の宇都宮大空襲 死者628名に次ぐ被害。太田製作所を爆撃した84機のいずれかが投下していったもの。

 

同日、足利の百頭以外にも館林の渡瀬など周辺地域に投下された場所はいくつもあったが、百頭に投下された爆弾・焼夷弾の数は突出している。事故で墜落炎上していることを知った後続のB29搭乗員たちの中には、爆撃コース上の事故現場付近で、爆撃照準器を作動させてしまう爆撃手が出てきそうな気もする。

 

2月16日 足利百頭の地蔵院において空襲犠牲者33名の初七日に合同慰霊祭が行われた。当日は米軍第58任務部隊の空母艦載機によるジャンボリー作戦が行われた日でもあり、中島飛行機太田製作所及び小泉製作所を攻撃目標とする艦載機が飛来してきた。このため慰霊祭に集まっていた人も逃げ帰っているという。

 

4月4日 中島飛行機小泉製作所を攻撃目標(作戦番号56)としたB29の空襲があり、百頭はこの日も空襲を受けたが死傷者は出なかった。B29にとって百頭~中島飛行機製作所は目と鼻の先。2月10日の太田製作所爆撃コースと今回の爆撃コースが百頭上で交差したのだろう。物語であれば「前回と同じ爆撃照準手が」という展開もあるだろうが。

 

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足利市田中町に墜落した米軍機と、同日足利・館林市に落ちた陸軍3式戦闘機の話

 

昭和20年2月16日 ジャンボリー作戦を行う米軍第58任務部隊の旗艦、空母「バンカーヒル」から出撃した艦載機TBM「アヴェンジャー(復讐者)」が、太田の独立高射砲第4大隊の砲撃を受け足利市田中町の民家に墜落し家屋を破損した。TBM搭乗員3名は2名が墜落死、1名はパラシュートで降下したが負傷していたため死亡。映画「トップガン」の劇中にあったように、この当時も脱出の際に頭部や頸部を損傷することがあったという。

 

私が聞いた話は「落下傘で降りてきた、竹槍をもって捕まえに行った、しまったそうだ」「米兵が履いていた靴を見せてもらった、とても大きな靴でおどろいた」というもの。

 

足利市田中町に墜落したTBM搭乗員の慰霊碑が、群馬県邑楽町の清岩寺にある。石碑には、ジョン・F・ケネディー元大統領の甥で『特攻 空母バンカーヒルと二人のカミカゼ』著者のマクスウェル・テイラー・ケネディーが寄せた言葉が刻まれている。

 

「人間の持つ残酷さを克服しこの人生を平穏なものにしよう 日本の皆さんに心からの感謝を込めて」

 

 

 館林市上空「戦闘機VS戦闘機」の空中戦

ジャンボリー作戦に参加した艦載機は1000機とも。これが各地の飛行場・軍需工場を攻撃した。

 

2月16日午後群馬県館林市上空でF6F「ヘルキャット」と格闘戦を行った244戦隊本部小隊の鈴木正一伍長の「飛燕」が足利市に、同じく新垣安雄少尉の「飛燕」が館林市木戸町に墜落した。

 

新垣少尉機は桑畑へ落ちた衝撃で、地下に5メートル以上めり込んだという。少尉が搭乗したまま埋まった飛燕は、墜落から34年後の1979年2月に遺族立ち合いのもと、陸上自衛隊によって発掘され遺骨が回収されている。これは木戸町住民からの要望によって実現したものだった。

 

この日、陸軍飛行第244戦隊は未帰還8機、戦死者4名の被害を出した。小林照彦戦隊長の編隊僚機である、鈴木機・新垣機がこのうちの2機、2名。

 

小林戦隊長は終戦後、航空自衛隊に入隊。昭和32年6月 搭乗するT-33「若鷹」が墜落して殉職されたが、市街地に落とさないよう脱出せずに操縦したという。

 

 

百頭空襲の遺族は慰霊祭までも米軍機に脅かされたこと。TBM「アヴェンジャー」だけではなく、同じ日に陸軍の「飛燕」も足利・館林市に墜落していることを記しておきたい。

 

 

このほか私が聞いた空襲の話は「飛行機が見たくて防空壕から頭を出した男の子が米軍機の機銃掃射で亡くなった」(昭和20年7月10日足利市川崎町、艦載機の機銃掃射により死者4名の話か)

 

「B29の焼夷弾で焼け出された人のために、一人一品以上持ってくるように学校でいわれた。石鹸と手ぬぐいを持って行った」昭和20年8月14日の足利市本城・西砂原後町で死者6名を出した空襲火災の話。

 

 

私の親戚にもこの戦争でマリアナ諸島に出兵戦死した人がいる。大人の背丈よりも大きな墓石に軍服軍刀姿の写真タイルがはめ込まれていた墓も25年ほど前、遠忌の弔い上げを機に片付けられた。

 

終戦時に20歳の人も今年で95歳、足利の様子を当事者から聞ける機会は少ない。