御師の家「毘沙門屋」と足利の富士講 その2
毘沙門屋の寄付連名額に見る富士講の有力者
明治10年に寶山傳行が開講した富士講が毘沙門屋に寄付をした時の奉納額。先達2名が行名を使っていないことから傳行を含めて行名をもつ藤行・羽行・三行・久行・真行などから代替わりした頃のもの。
世話人の大橋平蔵は先達の5倍、大川繁右衛門は3倍の寄付金額であることがわかる。
世話人の大橋氏が財政面で講社を支える講元役であった。
大川繁右衛門は弘化4年(1847)に小俣村の名主、安政2年(1855)に徒士格として足利藩士になり、大川家の当主は繁右衛門を襲名するようになる。奉納額に記載されている大川氏は三・四代目の繁右衛門だろう。
今回は、江戸末期の足利郡小俣村にて一代で巨万の富を築いたという二代繁右衛門と御嶽講についての話を書く。
足利には富士講・御嶽講・大山講・男体講・榛名講など多くの山岳信仰があった。御嶽講だろうと富士山に登るし、富士講だからと御嶽に登らないわけではない。
二代繁右衛門は御嶽講の真精講で先達をしていたという。村の名主が先達として講員を引率・先導出来たのかわからないが、講元のように財政面から講を支えていたのは間違いない。
下野国足利郡小友村の姥穴山に御嶽を勧請。ここまでなら特別なことではないが、下野国第一の霊山である日光山に御嶽開闢を発願、十二年間に渡り各方面に働きかけて日光三山の中央にある大真名子山に御嶽山を勧請した奇特な人。
日光山の寺社仏閣や日光修験の神体山に前例のない御嶽信仰を導入するのは、サンリオキャラクターの着ぐるみを着て某国に入国するよりも難易度が高いのでは。
北面が開けていれば、足利市の山からでも遠望できる日光連山(男・子・女)
真精講は大真名子山への拝礼が許されると、1864年(元治1)より御嶽山座王大権現・八海山提頭羅神王・三笠山刀利天宮の青銅像を安置していく。鉄はしご・鎖場がある標高2375mの山を登るだけでも大変なのに、等身大の座王大権現像を山頂まで上げるのにどれほど苦労したのだろうかと想像する。
三体の銅像を作った仏師 松本法橋良山は成田山新勝寺釈迦堂の堂羽目「五百羅漢」を彫った人。鋳物師は粉川市正藤原国正。山頂の座王大権現には、文久3年(1863)2月吉日 当国足利郡小俣村 発願大川繁右衛門 願主木村半五郎の銘あり。木村半五郎は文久2年(1862)桐生絹買仲間に名前がある人物。
両名は小俣村の元機と買次問屋であり織物業者であるが、織物だけでなく農業(地主)や金融業などの収入源も保持していたので、糸偏景気が多少揺らいでも問題なかったと思われる。
日光山へ御嶽を開闢出来たことに関係するかわからないが、大川家に伝わる三つ葉葵や水野沢瀉の家紋入り什器、栃木県の指定文化財になっている馬具や打掛などは、二代繁右衛門の財力を感じさせる。
老中水野忠精の室の生家が芳賀家であることから「芳賀家を通じて水野家と大川家は姻戚関係だった」という家伝があるそうだ。
越県併合により現在は群馬県桐生市菱町になった御嶽山(姥穴山)にある御嶽山石祠は大正13年に再建したもの。台座には「講元小俣 大川繁右衛門」の銘があるので、大正時代も御嶽 真精講の講元を務めながら富士講でも有力者であったことがわかる。繁右衛門は中禅寺の湖水で長谷川角行と角行の跡を継ぎ二世となる黒野軍平が初めて出会う話なども知っていたことだろう。
他の行者はともかく長谷川角行の跡を継ぎ二世となった黒野氏は男体山の本地仏が千手千眼であると知っていただろうし、男体山は中禅寺湖の泉源であると感じたかも知れない。
地元の御嶽山
桐生市菱町の御嶽山は参道入り口がゴルフ場となり麓から登れなくなってしまい、御嶽信仰も途絶えている。
山頂の御嶽山石祠には文久2年(1862)4月鎮座とあるので、日光の大真名子山と同時期に勧請したもの。大真名子山よりも1~2年早く勧請されているが、有名仏師に依頼して青銅像を制作する期間を考えれば差はない。
菱町御嶽山の参道に残る石造物
五丁 石
四丁 石
一心霊神碑(一心行者)
八海山提頭羅神王像(破損)
三笠山刀利天宮像(破損)
三笠山大神碑(破損)
立山大神碑
火産神神社碑
大江女護神碑(御嶽山八合目)
武尊大権現碑(普寛行者)
御嶽山石祠
*御嶽山石祠に、文久2年鎮座・大正13年遷宮とあるが、参道の石造物には明治5年のものあり。
小友村は明治8年に黒川村、明治22年に菱村となり昭和34年に群馬県に編入して桐生市菱町一丁目になる。
2014年木曽御嶽山の噴火では多くの犠牲者を出した。噴煙が上がる様子を撮影していた人に、噴石による犠牲が複数出たという。直接当たったのではなく高々度まで吹き上げられた噴石が落下してきて被災しているので、身を隠せる場所がないと逃げ切れるものではないのだろうが避難優先、撮影している暇はないと教えて頂いた。