足利市にある金山清行の石造物 2

 

1 石尊山(田島町・名草中町)赤萬字石祠

2 本覚山(名草下町)扶桑教大神石祠 明治10.5

3 本覚山 第壹世管長宍野大我報恩碑 明治35.9

4 女浅間山田中町)金山提箸翁碑  明治41.12

 

 

 『栃木県の中世城館跡』(1982)の本覚山城略測図を見ると、南の山に富士嶽神社を示す印があり、麓から社殿の近くまで破線が書かれている。

 

 

神社の祭りは屋台が出るほど賑わいがあったという。

 

金山清行が私費で作った報恩碑を足利町からこの山へと移転したので、そのことも参拝者を増加させたか。

 

信仰が失われて久しく、本覚山への登山道も藪に飲まれて消失しているので地元の人も登らない山となっている。

 

従是仙元宮入口

 

山中の富士嶽神社(旧仙元宮)は完全に倒壊して屋根瓦が散乱している。

 

 

屋根が土に返ったことで十数年前には見えなかった火鉢が出て来た。参籠で暖を取ったり、魚を焼いて食べていたか。

 

薬缶と茶碗などが落ちている

 

 

神道扶桑教の前身、扶桑教会の石祠。(明治10年

 

 

扶桑教大神の額。

富士山は神体山ではなく、修行の場になる。

 

 

台石正面に教会議事 教導職 金山清 同 高崎市蔵とある。

 

浅間神社にある「金山提箸翁碑」の撰文は、扶桑教大教正 高崎市蔵。

 

 

「かすならぬ吾さへ神の道しりぬ 君を教の祖(おや)とたのみて」

高崎市蔵から贈られた和歌から、清行への敬意を感じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

余談

扶桑教大神石祠の下に奉納された富士型御影は、モルタルで富士山の形を作り、木山(五合目以下)に鉱石をタイルのように張り付けたもの。

 

この石祠が建てられた明治10年は、古河市兵衛足尾銅山を買収したのと同じ年。

豊かな鉱脈の発見や採掘の近代化によって、足尾銅山明治17年に日本一の産銅量となる。

 

 

足尾銅山の坑道に祀られた山神社の祭神は「大山祗命・金山彦命・金山姫命」の三柱。銅山関係の信徒が金山神と清行をかけて奉納したものか。

 

 

 

 

蛇足

江戸時代の足尾は日光領、現在は日光市足尾町

足尾鎮守は日光中禅寺より勧請した妙見宮(現磐裂神社)であり、妙見宮を庚申山の登拝口とした。

 

 

傳十郎(金山清行)奉公先が上彦間村の豪農五味田某家。

五味田氏の名が、日光庚申山の社務所が発行する絵図に見られる。この社務所は火災で焼失し現存しない。

 

 

 

庚申山の山頂付近の古い名前は「富士 仙元」であり、実際に富士山を眺めることが出来るが雲で見えないことが多い。

 

 

下野国誌』(下野新聞社 1968)には、 庚申山は「安蘇郡足尾郷赤岩と云う所にあり」と書かれている。