足利で見られる富士講系図

富士行者 長谷川角行が、足利で布教活動をした文禄年間
豊臣秀吉が、全国制覇を成し遂げてから数年たった1595年頃)
角行は、岩井村にて水行100日、続いて大月村にて滞在修業をしました。

特に足利郡大月村での布教は、大きな成功を収めたようです。


いまでも大月町の仙元宮には、長谷川角行の法脈を受け継いだ
富士行者達を供養するための石塔が残ります。

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きょうは、左側の供養塔について解説。


これには、「 初代 角行 」から 「 6世 村上光清 」までの6人の戒名と
誰か不明である「 藤原之書晴居士 」の戒名が彫られている。

<角行・日ガン・ガン心・月ガン・月心・光清までの直系6代と、書晴居士の計7名>


村上光清の没後60年を前にして建てられ、安政元年とあるので嘉永7年と同じ1854年のもの。
ペリーの黒船来航などを受け、嘉永から安政へと改元された年であった。



戒名は「角行」を中心として、規則的に配置されていて
「 藤原之書晴居士 」は、 7世の戒名がくる位置にある。(7世とは名が違います。)

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富士講代々図の一例(身禄派のもの)



角行の法脈の本流である村上光清(村上派)は、光清の活躍以降は目立つ
大物指導者が輩出されなかったため、「長谷川角行(書行)」と「村上光清(光晴)」から
一文字づつ取ったこの行名は、書晴居士にとって大変重圧だったことでしょう。



大月の仙元宮では、村上光清を信仰の中興とし、講紋に村上光清定紋安政年間)
のちに「富士教」と同じ(山を冠した藤紋)を使用していたようです。

ここには、村上光清が再建した「北口仙元社」(現在の山梨県 北口本宮冨士浅間神社)を参拝する
大絵馬や、歴代行者の供養塔など、足利の富士浅間信仰において貴重な物が残される。



*「藤原之」は、長谷川角行藤原氏の子孫である(とのこと)から来ている。
たとえ名前が村上であっても、オミヌキなど信仰的な書物の署名はすべて
「藤原之○○」と記して、角行の直系であることを示した。