富士行者
長谷川角行が、足利で布教活動をした文禄年間
(
豊臣秀吉が、全国制覇を成し遂げてから数年たった1595年頃)
角行は、岩井村にて水行100日、続いて大月村にて滞在修業をしました。
特に足利郡大月村での布教は、大きな成功を収めたようです。
いまでも大月町の仙元宮には、
長谷川角行の法脈を受け継いだ
富士行者達を供養するための石塔が残ります。
きょうは、左側の供養塔について解説。
これには、「 初代 角行 」から 「 6世
村上光清 」までの6人の戒名と
誰か不明である「 藤原之書晴居士 」の戒名が彫られている。
<角行・日ガン・ガン心・月ガン・月心・光清までの直系6代と、書晴居士の計7名>
戒名は「角行」を中心として、規則的に配置されていて
「 藤原之書晴居士 」は、 7世の戒名がくる位置にある。(7世とは名が違います。)
角行の法脈の本流である
村上光清(村上派)は、光清の活躍以降は目立つ
大物指導者が輩出されなかったため、「
長谷川角行(書行)」と「
村上光清(光晴)」から
一文字づつ取ったこの行名は、書晴居士にとって大変重圧だったことでしょう。
*「藤原之」は、
長谷川角行が
藤原氏の子孫である(とのこと)から来ている。
たとえ名前が村上であっても、オミヌキなど信仰的な書物の署名はすべて
「藤原之○○」と記して、角行の直系であることを示した。