大日如来の胸に万字

日本に伝わる万字の語源は、仏の胸・手足に見られる吉兆のしるしを意味する梵語
サンスクリット語)であり、「吉祥」や「万字」と漢訳される。

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天平創建当時の製造方法を用いて、CGで再現された国宝・盧舎那仏坐像の
胸には右万字が描かれていた。(NHK BS-hiにて2006年放送)

戦火の被害を受け、大仏の大部分は大仏殿とともに焼失してしまったので
現在の大仏は、鎌倉時代と江戸時代に再建されたものである。


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鎌倉時代 弘安7年(1284) 再建される大仏殿の配置図」
中央の大仏は、大日如来として白蓮華(「大日経」)に位置し
すぐ左右の四角には「胎蔵界」「金剛界」と書かれている。

大仏を大日如来としただけでなく、垂迹として「天照大神」とも同体であるとした。
大仏勧進聖である「行基上人」の説話でも、大仏と天照との本地垂迹説を用いた。


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大仏の左脇には大日如来の無限の智慧と慈悲を象徴する「虚空蔵菩薩
(胎蔵曼荼羅 虚空蔵院の主尊)が配されている。


胎蔵曼荼羅の下部中段に位置する虚空蔵院では、主尊の虚空蔵菩薩よりも大きく
千手千眼観音」と「金剛蔵王」の両菩薩が左右に描かれていて、遍智院にある
「一切如来智印」とこの両菩薩を結んだラインをイメージしたとき
胎蔵曼荼羅の中に「五転」を表わす八葉蓮華を擁した三角形を見て取れる(気がする)。

(個人的な意見はともかく)この院が、原典になる「大日経」の内容と
合致していない院であることは確か。



虚空蔵菩薩は、星宮神社では『 明星天子 』として祀られる。
神仏習合の時代、足利市田島町の「星の宮神社」でも虚空蔵菩薩を祀っていたが
神仏分離令による廃仏毀釈運動により、隣接するお寺へと移されている。
この地域では虚空蔵の神使いが「ウナギ」であるとして、食さない禁忌が伝わっていた。


明治初期の神仏分離令は日本人の信仰心に影響をあたえ、足利市樺崎町にあった樺崎寺に
祀られていた、運慶作の大日如来坐像が、米オークションに掛けられる遠因ともなった。

(樺崎寺の運慶作「大日如来坐像」二体が、今年の秋に宇都宮美術館で見られるという。)

奈良の東大寺 南大門 「運慶・快慶」作 金剛力士像(鎌倉時代1203年)は有名であるが
足利の大岩毘沙門天鑁阿寺の仁王像も運慶の作と伝わる。
仁王像はともかく、大日如来像で運慶は足利との関わりを持っていことは
源頼朝の仲介を受けて北条政子の妹、時子と結婚した足利義兼(鑁阿上人)以降も
足利将軍家の200年を、陰ながら支えた足利庄の歴史を感じさせる。