北口御師 毘沙門屋さんの板マネキ

赤万字の書かれた板マネキ(講の広告)は、館林市でも見られますが
なんといっても圧巻なのは、山梨県富士吉田市上吉田にある北口御師
毘沙門屋さんでしょう。

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上吉田の町が現在地に移転して来た元亀三年(1572)の「吉田之新宿帳」にも
記録が残る毘沙門屋さんは、先々代まで御師として活動されていた本御師宅です。

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ここでいう御師とは、京都の吉田家や白川家などから神職としての許可をうけて
富士講社とは檀家関係を持ち、講員を相手に宿泊や食事などのお世話を生業とした。

夏場二ヵ月間の登山時期が終わると、富士山信仰の布教活動や檀家廻りを行い
(祈祷・お祓い・占いなど)を通して、富士の神様と信者との仲立ちをしていました。


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大広間や神殿のカベには、目に付いた物だけでも44枚の板マネキがあり
44点中の32枚が北関東の万字講のマネキです。

 赤万字31枚(右卍が25、左卍が6枚 )
白万字 1枚


新田源道純の知行地がある、群馬県新田郡のものが21枚と得に多く
栃木県足利郡の板マネキは小俣村と三和村の2枚のみでした。

しかし、新田源道純の知行地である新田郡宝泉村大字下田島内には
旗本 桑山家の知行地もあり、桑山家が知行する両毛五ヶ村の地頭役を
務めていたのが、足利郡大月村の名主でした。

現在の群馬県太田市で収穫した桑山家の年貢米も、足利郡大月村の名主を通して
渡良瀬川の猿田河岸から江戸へと送られていたわけです。



富士山信仰が盛んな新田郡と、古くから富士山信仰が伝わっていた足利郡の
大月村とは、信仰の上でも互いに影響を受けていたのかも知れませんね。