200年ほど前の芝居騒動と、冨士山舞具を見ていた?足利学校19世
県立足利図書館で公開されている「足利の富士講 秘巻の霊統展」の襖絵は、2月1日から入れ替え展示されるようです。
この襖絵が浅間神社の社地に伝わっていたのでなければ、絵師英悦さんの絵と言うくらいにしか感じなかった訳ですが
この2つの芝居を見ていた(聞いていた)当時の人々を想像する役にたつと思う。
200年前の話しをする前に、今月中に話しておいた方が気分が良い300年ほど昔の、お寺の話しから
京堀川の大仏師 法橋 福田康圓作との銘があり、その仏師が想定した拝観位置はこのあたりでしょうか
歴代住職の表にある、本源寺 第21世・22世が、足利学校の庠主(校長)第19世と20世になっています。
以前、足利学校を見学していた時に、家族連れのお父さんが「ここのどこが学校なんだよ!」と、急に大きな
声をあげられたので、びっくりした経験があります。頭の中にどの時代のどんな学校を思い描いていたのか
わかりませんが、「なんだか子供がかわいそうだな~」と…
教材と学生と教師がそろえば、そこが野原や河川敷でもいいわけで、しかも徳川幕府公認だったのですから。
声をあげられたので、びっくりした経験があります。頭の中にどの時代のどんな学校を思い描いていたのか
わかりませんが、「なんだか子供がかわいそうだな~」と…
教材と学生と教師がそろえば、そこが野原や河川敷でもいいわけで、しかも徳川幕府公認だったのですから。
今回は、その翌年の(寛政元年)に起こった、足利学校領内での芝居興行にまつわる騒動の話し。
興行は三日間との約束であったが、採算が取れないため一日延期したいという領民と、それを認めない足利学校の
いさかいとなり、18世は前庠主の17世および戸田家や江戸金地院と相談して、寺社奉行所へ報告をする。
いさかいとなり、18世は前庠主の17世および戸田家や江戸金地院と相談して、寺社奉行所へ報告をする。
奉行所では、問題として取り上げるほどではないとの判断であった。
宮地芝居などを支配していたのが寺社奉行であり、庶民に倹約を強要した寛政の改革では、地芝居に対する幕府の
弾圧は厳しかったそうですが、まだ寛政元年の奉行所では、よくある事案としてあしらわれていたようです。
弾圧は厳しかったそうですが、まだ寛政元年の奉行所では、よくある事案としてあしらわれていたようです。
今回の芝居騒動にも出てくる前17世庠主 千渓元泉が推薦した、久保田村 本源寺の住職 実巌宗和が、
幕府の任命を受けて学校第19世庠主になりました。
幕府の任命を受けて学校第19世庠主になりました。
県内にて現存する歌舞伎に、 栃木県無形民俗文化財の牧歌舞伎がある。
また、足利周辺には、舞台の襖絵や組立式舞台が残っており、やはりそれらの地域にも浅間信仰のあとがある。
庚申年や庚寅年と絡めて見ると、興行収入で買い替えたのかと想像するようなものもある。それらすべてを
浅間信仰と結びつけたい訳ではないが、天下泰平・五穀豊穣を祈願する民俗芸能との相性は良かったと思う。
庚申年や庚寅年と絡めて見ると、興行収入で買い替えたのかと想像するようなものもある。それらすべてを
浅間信仰と結びつけたい訳ではないが、天下泰平・五穀豊穣を祈願する民俗芸能との相性は良かったと思う。
「麦はいつまく、芝居はむまく」(いつまく?が五幕と六幕に掛かっている言葉遊び)と聞いたことがある方も
今ではもういないかもしれない。
今ではもういないかもしれない。
本源寺さんの本堂で見る、湊素堂老師の書
春夏秋冬 日光は平等に射し 月は清らか
疑られるようなことはしないように