月谷仙元宮と浅間大菩薩
足利市の月谷町にある古刹、行道山浄因寺。夜半に雪が降ると早朝から写真愛好家が撮影に向かうという絶景ポイントでもある。
行道山へと向かう市道沿いに建てられた観世音菩薩像。
この尊像の南方には山神社、道向いにある崖の上には仙元宮の石祠が祀られている。昔はここの崖を巻いて登ったのかも知れないが、いまはこの先にある浮石弁財天まで進み、対面の山内に建てられた鳥居を目印に入って行く。
江戸時代、この山には60余州を表した石仏が祀られ「ポックリ信仰」として、全国巡礼の疑似体験が行われていた。
その石仏も、数年前の道路改良工事(落石防止網工)によって一カ所に集められたり、山から降ろされたりした為、山内での全国巡りは出来なくなってしまった。
崖先にある仙元宮。
台石の正面は富士山方面を向いているが、お宮は180度回転していて向拝柱を欠く。
(東京の富士講マネキ)
これ以外でも、富士山・木花咲耶姫・三光などからイメージされた講印は多く見られる。
月谷仙元宮と直接の関係はないが、同じ山内にあるポックリ信仰の石仏にも富士山にまつわるものがある。仙元宮の100年前に作られた石仏たちだが、これらも信仰の対象にされていたと考える。
天保九年(1838)の「惣社明神由緒」には、宇津室八島大神を下野国長山(国長山=黒髪山=日光男体山)に納めたとあり。これに続けて、惣社大明神の奥院は国長山頂に有(中略)勝道上人は下野国都賀郡室八島にて誕生 同国芳賀郡にて成長 薬師寺にて剃髪 出流山千手観音を祈り二荒山を(後略)の記述が見られる。
日光中禅寺湖で水行をする角行と会い、授かった霊符によって子供の病気が治ったことが縁で弟子になったという。それに続く三世も下野国宇都宮押切町の生まれだったことを考えれば、正保三年(1646)の角行没後、伝言ゲームの初期段階から、下野の神仏が布教に利用されていてもおかしくはない。
蓮華座には、するが 冨士山とある。
東林寺本尊の天命鋳物
上の資料は古く、スケッチに誤記あり。現物確認による背面銘文は、「大田右衛門弐郎 作天命金屋住 天文四年乙未二月十六日 冨士中宮大日 願主別當 順仙 靏子」である。
落石防止工事により、駿河国の石仏も山から降ろされてしまった。そして残念なことに移動した場所は、犬のトイレだったようだ。
「永禄八年(1565)乙丑六月一日 冨士浅間大菩薩」の銘が刻まれた二面の懸仏あり。(虚空蔵坐像と、十一面観音立像の古鏡二面)
ポックリ信仰の石仏が散失する原因となる可能性もあり、山から降ろされてしまった石仏たちが山内へと戻れる日が来ることを祈る。
これは余談であるが、月谷町には「岩花」という字あり。いつの時代からある字名なのか不明だが、姉妹の神を連想する。
これを富士山に見立てた人もいただろう。画家の谷文晁もその一人だったかも知れない。
月谷町の旧家から、新しい史料が発見されることを期待している。