月谷仙元宮と浅間大菩薩



足利市の月谷町にある古刹、行道山浄因寺。夜半に雪が降ると早朝から写真愛好家が撮影に向かうという絶景ポイントでもある。
 
 
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  行道山へと向かう市道沿いに建てられた観世音菩薩像。


この尊像の南方には山神社、道向いにある崖の上には仙元宮の石祠が祀られている。昔はここの崖を巻いて登ったのかも知れないが、いまはこの先にある浮石弁財天まで進み、対面の山内に建てられた鳥居を目印に入って行く。


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江戸時代、この山には60余州を表した石仏が祀られ「ポックリ信仰」として、全国巡礼の疑似体験が行われていた。



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その石仏も、数年前の道路改良工事(落石防止網工)によって一カ所に集められたり、山から降ろされたりした為、山内での全国巡りは出来なくなってしまった。
 
 
 
イメージ 5 崖先にある仙元宮。


台石の正面は富士山方面を向いているが、お宮は180度回転していて向拝柱を欠く。
 
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台石には「三峰に咲」の講印があり、嘉永二年(1849)と刻まれる。
 
この講が活動した期間は不明だが、足利図書館で行われた富士講の企画展(2015)には、月谷村の冨士浅間神社に奉納された幟7点が展示されていた。(明治四三年~大正拾四年)
この内6点の奉納日が61日と6月吉日であることから、月谷の富士浅間信仰は大正時代の末まで続き、初山祭に合わせた神事が行われていたようだ。
 

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       (東京の富士講マネキ)

富士山と木花咲耶姫を表したこのデザインは、富士講の講印をならべた絵図「講中惣印」や、60年に一度の富士山御縁年に押し寄せて来た登拝者をモチーフにした「冨士山北口男女登山」の絵の中でも見られるもの。

これ以外でも、富士山・木花咲姫・三光などからイメージされた講印は多く見られる。

 

 
 月谷仙元宮と直接の関係はないが、同じ山内にあるポックリ信仰の石仏にも富士山にまつわるものがある。仙元宮の100年前に作られた石仏たちだが、これらも信仰の対象にされていたと考える。


 
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 下野国 室八嶋一宮  寄進者は、梁田郡萬福寺の恵弘


 室八嶋一宮とは、下野惣社式内社一之宮)。
惣社大明神の本地仏は不明であり、合掌する坐像も特定は出来ないが下野惣社などの社伝から、男体山との関係が気になる仏である。
 
 
寛文九年(1669)の古文書には、下野国都賀郡府中室八島惣社大明神は日光山・宇都宮・武蔵鷲宮駿河富士浅間御同躰之神霊とあり。
 
元禄元年(1688)『下野風土記』には、富士参詣をする人々は、まず室の八島にお参りして、竹の葉を持ち帰りお守りにするとある。
 
天保九年(1838)の「惣社明神由緒」には、宇津室八島大神を下野国長山(国長山=黒髪山=日光男体山)に納めたとあり。これに続けて、惣社大明神の奥院は国長山頂に有(中略)勝道上人は下野国都賀郡室八島にて誕生 国芳賀郡にて成長 薬師寺にて剃髪 出流山千手観音を祈り二荒山を(後略)の記述が見られる。
 
 
角行の法脈を継いだ二世は、下野国河内郡宇津宮宿鉄砲町住であり
日光中禅寺湖で水行をする角行と会い、授かった霊符によって子供の病気が治ったことが縁で弟子になったという。それに続く三世も下野国宇都宮押切町の生まれだったことを考えれば、正保三年(1646)の角行没後、伝言ゲームの初期段階から、下野の神仏が布教に利用されていてもおかしくはない。

宇都宮大明神の目前で暮らしていた二世が、宇都宮大明神  日光男体山 星宮 妙見 室の八嶋などの信仰と無縁でいたとも思えない。
 
 

勝道上人が奈良時代男体山に登った天応2年(782)から1234年目。男体山や出流山千手院満願寺など、栃木県内に点在するこれらの場所へ出かけるキッカケには良い年かも知れない。


 
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駿河国 富士山 宝暦四年(1754 施主は上野国邑楽郡篠塚村の人。



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    蓮華座には、するが 冨士山とある。

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左手を上に重ねた印相は大変気になるところではあるが、古くより浅間大菩薩の本地仏大日如来


天道山の仙元大日(足利市山川 福聚山長林寺蔵)や、下野国安蘇郡天命住の鋳物師 大田宣定が作った冨士中宮大日(神奈川県海老名市 明徳山東林寺蔵)も胎蔵界大日如来坐像である。


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東林寺本尊の天命鋳物

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上の資料は古く、スケッチに誤記あり。現物確認による背面銘文は、「大田右衛門弐郎 作天命金屋住 天文四年乙未二月十六日 冨士中宮大日 願主別當 順仙 靏子」である。
 
室町時代1535年に作られた冨士中宮大日は、=木花咲耶姫ではない時代の大日如来であるが、富士の神を木花咲耶姫としていた江戸時代の駿河国石仏は、「三峰に咲」の講印でも表すことが出来る。


 
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落石防止工事により、駿河国の石仏も山から降ろされてしまった。そして残念なことに移動した場所は、犬のトイレだったようだ。
 


 近県にある北関東の浅間大菩薩を見てみると、群馬県谷川岳
「永禄八年(1565)乙丑六月一日 冨士浅間大菩薩」の銘が刻まれた二面の懸仏あり。(虚空蔵坐像と、十一面観音立像の古鏡二面)
足利でも上州沼田城ゆかりの旧家などでは、谷川岳の浅間大菩薩を伝え聞いていたかも知れない。
 
 
茨城県坂東市にある享保2年(1717)の野仏(阿弥陀三尊像+富士山に浅間大菩薩と陰刻)には「浅間大菩薩」と刻まれてはいるが、この石仏の主役は阿弥陀三尊による御来迎。(富士山頂でのブロッケン現象
 
 
この他にも「浅間大菩薩」と文字で刻まれた石碑などが見られるが、足利市月谷町のように駿河国富士山を表した石仏は希少。
ポックリ信仰の石仏が散失する原因となる可能性もあり、山から降ろされてしまった石仏たちが山内へと戻れる日が来ることを祈る。
 
 

 
これは余談であるが、月谷町には「岩花」という字あり。いつの時代からある字名なのか不明だが、姉妹の神を連想する。

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江戸時代後期の画家で田原藩士の渡辺崋山が、この字名を読み替え命名したという「巖華園」には、山の斜面に巨石で作られた築山あり。


これを富士山に見立てた人もいただろう。画家の谷文晁もその一人だったかも知れない。
 
 月谷町の旧家から、新しい史料が発見されることを期待している。