「足利学校国宝展」で見る国宝書籍 (からの林羅山)


 「足利学校国宝展」開催中 
 
足利学校が所蔵する4種の国宝唐本が、足利学校内で初公開(今月30日まで)
国宝書籍4種77冊のうち4種16冊が展示されている。
南宋時代の木版印刷本であるが、作られて800年経つ書には見えない。
 

 関東管領 上杉憲実寄進の書に「此書不許出 學校閫外 憲實(花押)」とあり。
 豊臣秀次の指示で持ち去られた書籍類を、徳川家康足利学校に還付。
  8代将軍吉宗の取り寄せ閲覧。
 戦時中の戦火を避けるための持ち出し。
 市立美術館での一部展示などを除き、門外不出であったもの。

 
豊臣秀次に書籍類が持ち去られた際も、足利学校9世庠主三要が同行した。秀次の自死後、三要は家康のブレーンとなり本田正純・天海・崇伝・林羅山らと働くことで足利学校を守った。


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              北条氏政寄進の「宋刊本文選(国宝)」に加筆した三要の識語あり
 
 


足利学校を訪れる人が、方丈の脇仏壇や「尊牌の間」に並んだ位牌を校長先生の位牌だと思うようで、それらが歴代徳川将軍の位牌だと気付いて「何故ここで祀られているのか」と話しあっている姿を見かける。
 
 
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 江戸時代の足利学校で、徳川将軍家の位牌が祀られた間は東照宮であった。

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 林羅山にとって最後となった日光社参と足利学校
 
承応21653年は徳川家光の三回忌であり、羅山は息子読耕斎・門人の人見竹洞を連れて日光へ社参をする。日光の帰路、竹洞に案内され足利学校を訪れた羅山は、上杉憲実父子が寄進した五経注疏を借り受ける。
 
今回の国宝展に展示される国宝の書籍を借りたような表現であるが、足利学校に貸し出した記録がなく門外不出の書籍である事を考えれば、借り受けたのは羅山も納得する出来栄えの写本であろう。
 
足利郡西場村は人見家の領地であり、71才の羅山も老体を休めることが出来ただろう。足利からは、羅山の領地がある現埼玉県熊谷市鴻巣市を経て江戸へと帰る。現さいたま市にも人見家の領地があった。
 
羅山がこの旅を著した『癸巳日光紀行』には、足利学校 五経注疏の記述あり。
*癸巳は承応2年 
 
羅山は足利学校から借りた本を、家蔵の五経正義と対校して『五経注疏跋』『論孟注疏跋』を書いた。
足利学校五経注疏や論孟注疏という本がある訳ではなく、儒教経書の中でも特に重要であるとされた四書五経の「易経(占い)」「書経(政治)」「詩経(詩)」「礼記(礼儀)」「春秋(歴史)」や「論語」「孟子」などを指す。
 
 
 
  これ以降は、林羅山を軸に富士山信仰の話しになるので、足利学校国宝展に 興味をお持ちの方は足利学校へ。


 国宝展とは別に1215日までの期間、企画展足利学校の典籍」が開催中。  111日からは、こちらで国宝書籍4種の複製が展示される。

 
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    *左は無料でもらえる図録            
 



 林羅山について
 
慶長191614)年の「方広寺鐘銘事件」は、大河ドラマ 真田丸40 幸村」の中でも触れられていたが、林羅山は銘文に呪詛があるとした。南光坊天海・本田正純・金地院崇伝らが関与した事件。
 
元和2(1616)年 羅山が著した東海道の紀行文『丙辰紀行』では、三島の項にて「伊豆の三島はむかし伊豫國より遷して大山祇神をいわいまつる。いつぞや相國の御前にて三島と富士とは親子の神なりと世久しくいひ傳へりと沙汰ありければ、さては富士の大神をば木花開耶姫と定め申さば日本記のこゝろにも協ひ申すべきなり。竹取物語とやらんにいへるかくや姫は後の代の事にてや侍らん」とある。
浅間大神について、木花開耶姫かぐや姫を取り上げている。
 
 BSTBSの歴史番組 にっぽん!歴史鑑定「♯73 日本人の心・富士山ミステリー」(2016829日放送)では、富士山の神を、かぐや姫からコノハナサクヤヒメへと変えた人物として林羅山を取り上げていた。
 
 番組内容
霊峰・富士には、歴史の闇に埋もれてしまった様々な「ミステリー」が存在する。全国にある浅間神社で、富士山の祭神とされる女神「コノハナサクヤヒメ」しかし、江戸時代までは富士山の神様は「竹取物語」で知られるかぐや姫だったという!なぜかぐや姫は祭神の地位を剥奪されたのか?答えは江戸時代にあった。他
 
 
寛永61629)年 羅山は日光社参の時に、室の八島について「池の中に八島あり、島ごとに小祠あり」と述べているので、この当時も現在の室八島と大差がないことがわかる。
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「日光ノ神 富士ノ神等ノ諸神ヲ 此ニ請迎ス 然レドモ其ノ始メヲ詳ニセズ」とあるので、羅山が始まりについて尋ねてもわからなかったようだ。
八島に祀られた神々を(日光の神 富士の神等の諸神)と表しているのは、情報提供者の言葉か羅山の印象か。
 
 
寛永17年(1640)三代将軍家光が日光社参の帰路に、室の八島に立ち寄る。
家光の社領寄進、酒井雅楽頭らによる社殿再建などで荒廃した神社が復旧してゆく。
 
 
正保年中 (1645~8) 羅山の『神道伝授』に、ニニギノミコトコノハナサクヤヒメ・イハ長ヒメの神話による現人神が短命な由来の記述あり。
三種神器の項では、鏡・玉・剣を儒教的三徳(智 勇)とみなした。
「また鏡は日・玉は月・剣は星にかたどる、此三光ありて天地明なるが如」と天孫降臨の神話にて天照大神ニニギノミコトに授けた三種の神器を三光に例えている。
勾玉は三日月を、剣は北斗七星(妙見・七星剣・七星文・破軍星)を連想する。この例えは下野國でウケが良かったと思われる。
 
承応21653)年『癸巳日光紀行』に、羅山が見たという武蔵鷲宮の古縁起(現埼玉県久喜市鷲宮神社)の記述あり。富士山神・室八州などが出てくる。
 
 
足利の先達 正田正行を開祖とする富士講社があった、「癸生のせんげんさま」(栃木市大塚町癸生浅間神社)の社伝では、正田正行がケブ村に訪れた年を 承応2年であるとするが、これでは足利の正田正行とは年代が合わない。
なぜ承応2年としているのかは不明だが、羅山・癸巳日光紀行と同年である点が気にかかる。
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正田正行がケブ村を訪れた理由が、「神話のコノシロ伝承地を探しに来た」というファンタジーな理由であるだけに、さらに空想を広げてみれば、足利から毛武(上州を通りぬけて武蔵)に向かう林羅山に、徳川東照宮群馬県太田市徳川町)などが便宜をはかっているのではないか。(と連想したのかも知れない)