先達 正田正行が探し当てた、コノシロ伝承地 「 癸生浅間神社 」



 
 
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栃木の民話に「娘の身代わりにヒツギに魚を詰めて焼き、偽りの葬儀をした」という物語があるが、
このときに焼いた魚がコノシロであるという。
 
 
 
コノシロ」 天孫瓊瓊杵尊バージョン(*解説するとしたらこんな感じ)
 
サクヤ姫に一目惚れした天孫ニニギは、父オオヤマツミの許しを得て一宿を共にする。
オオヤマツミはサクヤ姫と姉のイワナガ姫を嫁するが、姉は容姿を理由に帰された)
 
サクヤ姫が妊娠を告げるとニニギは疑い「一宿哉妊 是非我子必國神之子」と言い放つ。
「國神之子なら産不幸 天神之御子なら幸」と誓約をして、サクヤ姫は火中出産する。
 
火中で無事出産し貞操を証明したサクヤ姫(しかしこの一件でニニギに愛想尽かす。)
ニニギの使者から逃げるサクヤ姫を、臼作りをしていた翁が臼の中にかくまって助ける。
 
オオヤマツミは、柩にコノシロを詰めて焼き、サクヤ姫は死んだと偽りニニギをあざむく。
サクヤ姫は父から富士山を譲り受けて、この地を離れて富士の神となる。


 
イワナガ姫を侮辱され、サクヤ姫は不貞を疑われて不仲になる。見兼ねたオオヤマツミ
娘の身代わりとしてコノシロを焼いた場所が「下野国のケブ村」であったという。
 
星宮神社の祭神をニニギと見なし、隣接する浅間・星宮社も見られたのに反して、夫婦神の
物語はとても残念な内容である。

 

 室八島のコノシロについて 
 
「おくのほそ道」(1689)にて室の八島に立ち寄った松尾芭蕉に、木花咲耶姫の火中出産や
コノシロの話をして聞かせた河合曾良の旅日記には、ケブ村の場所が書き残されている。
ケブ村にコノシロ伝承地があるという話しも聞き及んでいたかも知れない。


 江戸時代の本草書『本朝食鑑』(1697)の著者 人見必大は、林羅山の門人である人見竹洞の弟。
の項にて野州室八島のコノシロ伝承を紹介している。また、富士峯稲荷の神罰を理由として「(コノシロを)最も賤しい魚とするのは理にかなわない」とした。
当時広く知れ渡っていたコノシロの伝承であるが、必大は兄竹洞からも聞かされていたのだろう。
小野姓人見氏の必大は、富士山にある稲荷の神を信じていたようだ。



   癸生浅間神社と足利   
 
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              石灯篭A 天保911月 野州足利郡
 
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            石灯篭B 安政29月 正面に右卍 左面に御詠歌
 
  
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              小御岳石尊大権現  天保113月 足利郡 
 

 
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          正田正行を開祖と刻む 北口登山八十八度碑(明治13年)
 
 正田正行が足利の浅間山に、北口登山三十三度碑を建てたのが嘉永元(1848)年。
 癸生浅間神社でみる足利などの奉納物の年号が 天保91838)年~弘化41847)年。
 承応21653)年にコノシロ伝承地を探しに来た正田氏とはちょっと違うようだ。
 
 
 

 
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              ここで見る薬師瑠璃光如来の石碑について
 

   富士山頂の薬師如来
 
北口山頂の薬師嶽では、薬師堂に祀る薬師如来垂迹神を「鹿島金山大権現」とした。
鹿島金山と聞けば、足利周辺の人々は地元の山や神社を連想すると思う。
神職であれば、鹿島大明神から『日光山縁起』日光権現や宇都宮大明神まで連想するかも。

ここでは裏薬師として、富士塚の向きとは関係なく北口を示すのだろう。

 
 
北口一合五勺目にあった定禅院の本尊は、富士山頂の薬師如来を勧請したという伝承があった。
江戸後期には西念寺へと移され、安政21855)年「八葉峰中薬師如来」との奉納額もあるという。


 
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 栃木市惣社町室八島 大神神社の表参道前にも、薬師瑠璃光如来が祀られた薬師堂がある。周囲の開発により鳥居前に立っても今は見えないが、かつては一番目立つ建物であった。


富士参詣者が、室の八島から竹葉を持ち帰っていた頃は、参道前の薬師堂を詣でていたのかも知れない。