足利市で見る金山清行の石造物 1

 

1 石尊山(田島町・名草中町)赤萬字石祠 明治6年

2 本覚山(名草下町)扶桑教大神石祠 明治10年

3 本覚山 第壹世管長宍野大我報恩碑 明治35年

4 女浅間山田中町)金山提箸翁碑  明治41年

 

石尊山には大正時代まで人が住んでおり、御祭りは賑わったという。山頂に石祠と明治6年の水盤、北東の山麓にある大寶寺が奉納した石仏あり。

 

大寶寺の山院号は天王山(いなりさん)三品院(さんぽんいん)であり、阿弥陀如来三尊佛を御本尊としている。

石尊山・いなり・阿弥陀三尊というパワーワードがそろい、人が住む平地(城跡)があるという好立地。

 

 

城跡の南西にあり、名草村を向いて建つ石祠。

東の本覚山に向けているともいえる。

 

台石正面に「大先達 荒井仰行真 大願成就 先達 金山清行」とあり、左右裏面には名草村講中・助戸村講中・南猿田・北猿田の講員および世話人の名が刻まれる。

 

上野国邑楽郡傍示塚村の荒井仰行は、両毛で活動した大先達。この石祠が作られていた頃に、静岡県浅間神社宮司である宍野半が富士一山講社を設立。この後、荒井仰行の講社も富士一山講社を経て扶桑教の傘下になる。

 

「金山清行」と行名が刻まれる石造物は、足利市では石尊山にある明治6年の石祠のみ。

 

年号の前にあるのは北猿田村の石工である高瀬家か。金山清行の叔父も高瀬姓なので、どちらの高瀬氏なのか不明。

 

 

余談

荒井仰行の富士登山三十三度大願成就碑(萬延元年)が、富士山北口一合目 鈴原社の手前にある。

 

明治6年の大願成就よりも13年早い。

 

背景の左に見える白い紙垂は、一合目鈴原社の鳥居。

 

宿坊 小澤久大夫とあり、足利大月村を旦那場としていた御師の家を、初代荒井仰行が利用していたとわかる。

 

万延元年は庚申年なので、宿坊も石工も大変な年。

 

 

 

蛇足

足利市田中町の女浅間神社には、荒井仰行や金山清行と面識があった二代目正田正行の「水行五年 大願成就碑」(明治28年)があり、水行の内容と頻度が気にかかる。

 

 

上記の石碑が建てられた前年日清戦争が勃発すると、金山清行は渡良瀬川で祈請の水行をしている。厳冬でも行う姿を見た世人は、清行を「水行」といったらしい。(『金山清行小傳』)

 

寒い日に渡良瀬川で身を清めているお爺さんがいるなど、現在なら通報案件。やはり戦争は怖い。