足利市にある金山清行の石造物 3

1 石尊山(田島町・名草中町)赤萬字石祠 2 本覚山(名草下町)扶桑教大神石祠 明治10.5 3 本覚山 第壹世管長宍野大我報恩碑 明治35.9 4 女浅間山(田中町)金山提箸翁碑 明治41.12 明治35年9月(1902)建てられて120年経つ神剣。碑文は神道扶桑教管長 宍野…

足利市にある金山清行の石造物 2

1 石尊山(田島町・名草中町)赤萬字石祠 2 本覚山(名草下町)扶桑教大神石祠 明治10.5 3 本覚山 第壹世管長宍野大我報恩碑 明治35.9 4 女浅間山(田中町)金山提箸翁碑 明治41.12 『栃木県の中世城館跡』(1982)の本覚山城略測図を見ると、南の山に富士嶽…

足利市で見る金山清行の石造物 1

1 石尊山(田島町・名草中町)赤萬字石祠 明治6年 2 本覚山(名草下町)扶桑教大神石祠 明治10年 3 本覚山 第壹世管長宍野大我報恩碑 明治35年 4 女浅間山(田中町)金山提箸翁碑 明治41年 石尊山には大正時代まで人が住んでおり、御祭りは賑わったという。…

足利市本城町の富士講碑

足利町の北部(足利市の北部ではない)本城村を昔は「あけしの里」といった。 本城一丁目に、山頂の岩を富士山に見立てた山あり。本城では富士山と呼ぶ。 昭和38年から始る「足利駅前土地区画整理事業」により、足利学校の東にある善徳寺の墓石(3408基)が…

金山清行 山林斗藪の奇人

金山清行(1824‐1909)は江戸末期から明治時代に、赤萬字講や扶桑教などで活動した宗教家。富士登拝七十五回。外八海修行。 文政7年 近江彦根藩領の下野国安蘇郡上彦間村塚越生まれ。塚越は小字ではなく屋号だという。 幼名 傳十郎 通称 提箸清七 雅号 木花 …

丸登講社の富士講碑

画像左上の足利市板倉町 冨士嶽神社から9.2Km、足利市島田町に丸登総社の富士塚あり。 左側の赤っぽい富士登山三十三度碑が明治15年8月、右の大きな石柱が富士登山五十度碑で明治33年7月に建てられたもの。 18年間に十七度の富士登山が行われているので、単…

丸登講の冨士嶽石祠(足利市板倉町 冨士嶽神社)

富士吉田市にある富士講のマネキに「下野國梁田郡堀嶌邨 井下田登行忠明 講社中」がある。 『富士吉田の富士山信仰用具調査報告書』第2分冊 2/3 https://web.fujinet.ed.jp/div/hakubutsu/pdf/fujisanshinkouyougu2_down_part2.pdf 上記の二つは同じURL。16/…

足利市大月町の天道山から見る足利花火大会

足利市田中町の上浅間神社(男浅間)から見た花火大会を、足利市大月町の天道山から見る。 天道山には整備された登山道がない。 足元を照らす照明の確保。蜘蛛は短時間で巣を張るなど、夜間登山の注意点がわからないと日中の登山よりも道迷いになりやすい。…

打ち上げ花火、下から見るか 横から見るか(足利市田中町 上浅間神社)

第100回足利花火大会の夜に、田中町の上浅間神社に登って見た時の話。 上浅間神社の登山口より 花火の打ち上げ場所は田中橋の下流、渡良瀬運動公園および河川敷。 渡瀬川に架かる橋は、上浅間神社麓の渡良瀬橋・中橋・田中橋となり、距離があるため仕掛け花…

足利花火大会と織物業者の商標に見る富士山

明治36年創始 第106回足利花火大会が開催。 例年よりも45分短縮されて、2万発を60分で打ち上げるので、渡良瀬川上空の風向きと煙が心配。 平成7年の足利花火大会は、開始直後から降り出した雨により50分連続打ち上げとなった。あの年と同様に迫力のある大会…

足利市小俣町冨士嶽神社の奥宮(群馬県桐生市菱町一丁目米沢浅間神社)  

明治33年(1900)小俣村の寶山傳行講社が、足利郡菱村米沢の雷電山に奥宮を建てる。40数年前は足利郡米沢村の山であった。 下野国足利郡米沢村は、安政年間(1854‐1860)に村を二分して、小友村と小俣村に併合し消滅。小友村は明治8年に黒川村、明治22年に菱…

足利市小俣町の冨士嶽神社 登山三十三度碑

足利市小俣町の冨士嶽神社にある明治34年(1901)登山三十三度碑は、33回の富士登山をへて大先達となった二代目寶山傳行の記念碑。 主な碑文は表面に 大先達寶山傳行 登山三十三度碑 東毛山下允升拝書 (裏面) 富士北口吉田 中教正佐藤嗣根 寶山傳行風崇信…

大岩毘沙門天の毘沙門天像 修復のため京都へ

デジタル勧進(クラウドファンディング)で全国より2538万8259円の修復資金が寄せられ、毘沙門天像が京都へと移される。 修復された毘沙門天像の出開帳は数百年先か? 足利のとあるお寺で、修復作業で色彩まで復元された仏像を見て残念に思ったことがあり、…

寶山傳行講社の冨士嶽神社にみる大橋平蔵

足利郡小俣村の酒造業 大橋平蔵氏の店舗に掲げられていた木製看板がインターネットのオークションに出品されていた。 天正2年(1574)に、近江国の鋳物師が下総国 市川に移住して醤油醸造を始める。鋳物師釜屋の田中喜兵衛が作る醤油蔵の屋号も釜屋。 釜屋が…

富士山山頂の金明水・銀明水で作ったお酒の話

北口本宮冨士浅間神社の御祭神である、木花開耶姫命と大山祇命は酒造の神様でもあるという。 父神を酒解神、その娘の木花開耶姫を酒解子神と同じであるとするもので、京都の梅宮大社では、酒解神・酒解子神・夫の瓊瓊杵尊・息子の彦火火出見尊の四柱を御祭神…

北口本宮冨士浅間神社で見る足利の富士講 その2

北口本冨士浅間神社の参道は、空間デザインにより空気感まで違って感じる。 同じような石灯篭が並んでいるが、村上光清の藤紋などを見比べながら進むと石工の技量や個性が見られて面白い。 三国第一山の大鳥居をくぐり進んだ先にある拝殿には、歴史を感じる…

北口本宮冨士浅間神社で見る足利の富士講 その1

棋士の藤井聡太五冠が、富士山の何合目まで来ているかと問われて「森林限界の手前」と回答。合目で例えないところがお洒落。 八峰ある富士山頂上で八冠という意味も含めた質問か。 温暖化の影響で森林限界は少しづつ上昇しているという。富士山では五合目付…

御師の家「毘沙門屋」と足利の富士講 その2

毘沙門屋の寄付連名額に見る富士講の有力者 明治10年に寶山傳行が開講した富士講が毘沙門屋に寄付をした時の奉納額。先達2名が行名を使っていないことから傳行を含めて行名をもつ藤行・羽行・三行・久行・真行などから代替わりした頃のもの。 世話人の大橋…

御師の家「毘沙門屋」と足利の富士講 その1

コロナで外出を控えていたらもう大晦日。昨夜テレビを見ていたら開戦から今年で80年とあった。戦後ではなく開戦から何年というのもあるのだなと当たり前のことを思う。 今年は明治政府によって御師職が廃されてから150年。足利市の市政100周年だった。 来年…

山火事後の両崖山に登る 足利市本城一丁目の両崖山ハイキングコースより

両崖山へのハイキングといえば、西宮町の足利織姫神社から登り始めて両崖山の足利城跡まで行って折り返してくる人が多いだろうか。 『足利市ハイキングマップ』では「歴史のまちを望むみち」と「天狗山ハイキングコース」の2つをおすすめコースとしている。 …

足利市樺崎町馬坂の浅間神社と、陸軍飛行第244戦隊3式戦闘機「飛燕」の話

足利市樺崎町馬坂の浅間神社 国道293の越床トンネルの手前にある馬坂の浅間神社は、藪に飲まれて近寄れない状態になっている。 境内の下草が手入れされていた一昔前の写真。 ここで目を引く「富士登山三十三度修行」の大きな石碑は、神道扶桑教大講義 阿由葉…

足利富士浅間神社 初山のペタンコ祭開催中止の6月1日月曜日の朝に

初山のペタンコ祭が、新型コロナウイルス感染拡大の影響で開催中止。 館林市富士原町の富士獄神社 初山大祭や、7月に開催予定であった佐野市奈良淵町の火祭り(浅間山のおたきあげ)など、富士山信仰として子供たちの無病息災を願う祭りが中止になる。これ…

渡良瀬川 奥戸の余談

足利市奥戸町の仙元宮から西に歩いて行くと、渡良瀬川の土手を上る階段があり、その手前に大日尊と天照皇大神宮の石造物、階段を上ったところには水神宮の石碑がある。 ここからは尾名川水門・出流川水門・多田木山が見え、 渡良瀬川の上流を見ると袋川水門…

渡良瀬川 奥戸村の仙元宮の話し

足利市奥戸町の集会所に、大きな仙元宮の石碑と卍講の 石祠がある。 地区内の石碑の一部が集められている感じ。 石碑の台座には、溶岩と河原の石が埋め込まれている。 卍講の石祠は、傍示塚村の荒井仰行を先達とするもの。 近所にお住いのシュクさんにお話し…

渡良瀬川 岩井山の余談 千年寺・乳房地蔵・長谷川角行

岩井山千年寺の話し 千年寺は黄檗宗黒瀧山不動寺(群馬県甘楽郡南牧村)の末寺であったが 明治7年に廃寺を申請、本尊の釈迦如来像は臨済宗の寺院に移された。 千年寺跡地にある廃屋は、のちの個人宅が倒壊しかけているもの。 ここには、六地蔵などの石仏・石…

渡良瀬川 岩井山の話し 赤城神社・金刀平神社・浅間神社

岩井山は古くは勧農山と呼ばれ、勧農城址がある。 岩井村も古くは十念寺と呼ばれるところにあったが、渡良瀬川の洪水被害により勧農山へ移った。 岩井山には、赤城神社・金刀平神社石碑・浅間神社石祠あり。 明治十年代の三社の(社掌・祠掌・神官)は同一の…

渡良瀬川 南猿田の富士講碑

旗本領であった南猿田村は明治8年(1875)塩嶋村・神明村などと合併 して梁田郡福富村となる。 明和8年(1771)に南猿田河岸が出来て栄えた村であった。 渡良瀬川河川改修により移築した鎮守の八幡宮境内には、地区内に あった小祠などがまとめられている。 …

渡良瀬川 北猿田の余談

天明の災害 水運関係者にとっての火山の恐怖とは、天明3年(1783)浅間山の噴火だろう。足利でも数日にわたって砂が降り、昼も暗く、田畑が埋まったという記録がのこる。砂が降るという天変地異と天明飢饉、利根川の河床上昇による洪水など災害が続いた。渡…

渡良瀬川 北猿田の話し

北猿田河岸にあった石灯篭がJR足利駅に近い伊勢神社の境内にある。 嘉永2年(1849)に、河岸問屋「問忠」が建てたもの。 竿には安全と繁盛を祈願した三柱あり。 「大杉大明神・天照皇大神宮・金毘羅大権現」 大杉大明神と金毘羅船々シュラシュシュシュの…

..が出現した胎内洞穴

船津胎内樹型 江戸末期の御胎内入り口のイメージは宝珠とでも 絵の中には安産祈願の品となるタスキとロウソク、洞穴内を這うための膝当て草鞋などが見られる。 入口に社殿が建てられた明治期でもイメージは変わらず 祭神は木花咲耶姫命。のちに吉田胎内が開…