渡良瀬川 岩井山の話し 赤城神社・金刀平神社・浅間神社
岩井山は古くは勧農山と呼ばれ、勧農城址がある。
明治十年代の三社の(社掌・祠掌・神官)は同一の勧農秀學。
勧濃村を勧農村へ改めたのが明治6年、勧農村住の秀學さん。
明治14年(1881)川上講の浅間神社があった。
岩井山と同じく、川上講二代目日下部明行の石祠であったが、
こちらは現在なくなっている。
足利市大月町東耕地の仙元宮にある川上講マネキも、この講社の
もの。
岩井山の赤城神社と勧濃村
赤城神社にある延享元年(1744)・宝暦8年(1758)・文化13年(1816)の石灯篭をみると、勧濃村の人が奉納したとわかる。
天保10年(1839) 石灯篭はそれに伴って移されてきたもの。
赤城神社は岩井村や勧濃村だけでなく、猿田の河岸問屋などからも信仰されていた。金刀平神社(=金刀比羅)も同様。
現在は勧農岩井地区の岩井町・若草町・宮北町・寿町・昭和町(寿昭和)の計5町内が氏子となっている。
若草町・寿町や隣接する千歳町などの町名からは、逆に渡良瀬川の洪水被害を感じる。
ちなみに宮北町とは神社ではなく、宮澤と北袋の古地名が由来。
カスリーン台風と岩井山
へっつい(=カマド)とは、土手の形状からの名称だろう。
昭和22年(1947)のカスリーン台風では、長雨の高水位によって土手が水を含んでゆるくなっていたところを、川の水が越水して決壊した。
洗掘で出来た深い押堀は、水害池や災害池などと呼ばれて昭和40年頃まで残った。
洪水対策のために作られた岩井分水路や河川改修により、岩井町は県庁足利庁舎前(パスポートのところ)から福猿橋の下までの広い河川敷も町域としている。