足利市樺崎町馬坂の浅間神社と、陸軍飛行第244戦隊3式戦闘機「飛燕」の話

足利市樺崎町馬坂の浅間神社

 

 

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国道293の越床トンネルの手前にある馬坂の浅間神社は、藪に飲まれて近寄れない状態になっている。

 

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境内の下草が手入れされていた一昔前の写真。

 

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ここで目を引く「富士登山三十三度修行」の大きな石碑は、神道扶桑教大講義 阿由葉忠七叟(翁)講社の少教正 松崎善吉が明治33年に建てたもの。(北郷村利保の忠七さんは、この時すでに故人)

 

山梨県富士河口湖町の「富士博物館」には、松崎善吉が御師宅に奉納した食行身禄像が展示されていた。身禄像の厨子には「明治23年12月15日 足利郡北郷村椛崎 少教正 松崎善吉 惣講社」の銘がある。(河口の御師宅を移築し、昭和29年に開設された富士博物館は2019年10月から現在休館中。)

 

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石の鳥居は足利学校の門前、昌平町の人が寄進。

 

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欄干石柱のひとつは足利市通6丁目の日本茶専門店 岩田園さん。

 

境内にある石碑には、安蘇郡の赤見村や田沼町(共に現佐野市)の寄進者名が見られる。馬坂や越床の地名からも、当地と安蘇は往来が盛んにあったのだろう。

 

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社の近くに樺崎八幡宮あり。

関東ふれあいの道(マンサクの花咲くみち)」道標。

 

長谷川角行の後継者、四世の月玵や五世月心が足利の大月村を訪れた際、出流観音(栃木市出流町)へ詣でる道中、樺崎で山越えしていると思われる。

 

坂東三十三観音第十七番札所 出流山満願寺への巡礼者も多く、かつては多くの辻に出流への道標があったという。

足利の鑁阿寺でも鎌倉時代正安元年(1299)に建てられた本堂(2013国宝指定)の外陣が、夜間は巡礼者に開放されていた。今でも内陣と外陣を仕切る戸をはめ込む溝が残り、御護摩や御祈祷で本堂に上がると外陣の様子がよくわかる。

 

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樺崎八幡宮の東、赤坂にある文字が見えない道標。

〈←樺崎八幡宮  城山・塩坂峠・越床峠→〉この道標を見ても、往来に使われることが無くなったルートの状況がうかがえる。城山とはかつて樺崎城があった山。

 

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山を越えた先にある佐野市寺久保町の熊野神社には、明治期に建てられた富士講先達 荒井仰行門人たちの石碑、小御嶽石尊石祠(冨士山小御嶽神社)、高尾山石祠などがある。(全く気が付かなかった青いハンガーは不明)

 

 

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石の形から烏帽子岩と思われる碑には、手印を結んだ食行身禄の彫刻。門人たちの碑は左卍なのに対して、この碑は右卍。身禄のモデルは仰行か。

 

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佐野側のふれあいの道は昨年の台風19号洗堀されているようだ。この台風の影響は、太田市の自動車メーカーから山道まで被害は甚大。

 

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熊野神社の南、足利と安蘇とで信仰があった鳩峯山神社の石灯篭

 

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左に行けば鳩峯山神社 右に進めば山を越えて足利

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足利市樺崎町馬坂にある石碑「陸軍中尉 永井孝男戦没之地」の話

 

昭和20年2月10日午後 足利郡北郷村大字樺崎馬坂の山中に陸軍飛行第244戦隊みかづき隊の永井孝男少尉が操縦する3式戦闘機「飛燕」が墜落した。

 

この日、群馬県太田市の「中島飛行機太田製作所」を攻撃目標(作戦番号29)としてマリアナ諸島から118機のB29爆撃機が発進。これを邀撃するため出撃した戦闘機であった。

 

私が聞いた話は「城山(ジョウヤマ)に米軍機が落ちた、みんなで竹槍を持って登った」というもの。実際は日本の陸軍機であり、墜落現場に小さな慰霊碑が建てられた。

 

「大月の山に金属片が散っていた」という話は、飛燕が山の木に当たっていったのかも知れない。

 

 

マリアナ諸島から出動した118機のうち、太田製作所爆撃84機(71%)未帰還機12機(10%)損傷機29機(25%)であった。

 

この日B29同士で接触事故を起こし、群馬県邑楽郡邑楽町秋妻に墜落した2機がある。陸軍第1練成飛行隊の倉井利三少尉が4式戦闘機「疾風」でB29に体当たり2機撃墜という話はここから来ているのだろう。

 

同年4月11日 倉井少尉を含む陸軍五人の感状上聞(軍功を天皇に報告)は、12日付の新聞にて「B29体当りの五神鷲」として英雄報道されている。倉井機が墜落した栃木県下都賀郡野木町佐川野には、現場畑の所有者が建てた倉井少尉の慰霊碑がある。

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編隊を組んで飛来するB29。接触事故を起こして墜落する2機の様子は編隊僚機によって確認されている。

 

この日、太田製作所への爆撃を終えて帰途するB29を海軍の戦闘機が1機撃墜した。アメリカ側の資料ではこの日の未帰還機12機の内訳は撃墜5機、その他7機。戦闘機による撃墜で詳細がわかるのは海軍機による一件のみ。群馬県邑楽町にB29の残骸あれば、陸軍がこれを最大限利用するのは必定。平将門を呪殺した実績がある茨城・栃木、「必墜の攻撃精神が当たりB29が事故を起こした」ともいえる。

 

 

樺崎町馬坂に永井少尉機が落ちるのを目撃したという話を私は知らない。永井少尉と同じ244戦隊所属、とっぷう隊 梅原三郎伍長機の目撃談から、永井少尉機の墜落状況を想像する。

 

同日、茨城県結城郡石下(現常総市)上空にてB29に体当たりした梅原伍長の「飛燕」は、市街地への墜落を避けるように方向転換して茨城県筑西市大塚の雑木林に墜落した。永井少尉も足利市街地への墜落を避けるために、馬坂の山中へ墜落したのではないかと考える。

 

筑西市大塚にある慰霊碑「故陸軍伍長梅原三郎戦死之地」には「同月23日防衛総司令官稔彦王殿下より感状を賜り同年3月8日畏くも上聞に達せられる陸軍航空曹長に昇級」とあり、特別攻撃により二階級特進されたことがわかる。

 

永井少尉の碑に「陸軍中尉」とあるのは一階級特進後の階級を碑に刻んだものだろう。

 

 

足利市の「百頭空襲」

昭和20年2月10日午後 群馬県邑楽町にB29が墜落した現場から北に1キロ、足利市百頭町に250キロ爆弾83発と数多くの焼夷弾が投下され33名もの尊い生命が失われた。これは栃木県内の空襲では同年7月12日の宇都宮大空襲 死者628名に次ぐ被害。太田製作所を爆撃した84機のいずれかが投下していったもの。

 

同日、足利の百頭以外にも館林の渡瀬など周辺地域に投下された場所はいくつもあったが、百頭に投下された爆弾・焼夷弾の数は突出している。事故で墜落炎上していることを知った後続のB29搭乗員たちの中には、爆撃コース上の事故現場付近で、爆撃照準器を作動させてしまう爆撃手が出てきそうな気もする。

 

2月16日 足利百頭の地蔵院において空襲犠牲者33名の初七日に合同慰霊祭が行われた。当日は米軍第58任務部隊の空母艦載機によるジャンボリー作戦が行われた日でもあり、中島飛行機太田製作所及び小泉製作所を攻撃目標とする艦載機が飛来してきた。このため慰霊祭に集まっていた人も逃げ帰っているという。

 

4月4日 中島飛行機小泉製作所を攻撃目標(作戦番号56)としたB29の空襲があり、百頭はこの日も空襲を受けたが死傷者は出なかった。B29にとって百頭~中島飛行機製作所は目と鼻の先。2月10日の太田製作所爆撃コースと今回の爆撃コースが百頭上で交差したのだろう。物語であれば「前回と同じ爆撃照準手が」という展開もあるだろうが。

 

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足利市田中町に墜落した米軍機と、同日足利・館林市に落ちた陸軍3式戦闘機の話

 

昭和20年2月16日 ジャンボリー作戦を行う米軍第58任務部隊の旗艦、空母「バンカーヒル」から出撃した艦載機TBM「アヴェンジャー(復讐者)」が、太田の独立高射砲第4大隊の砲撃を受け足利市田中町の民家に墜落し家屋を破損した。TBM搭乗員3名は2名が墜落死、1名はパラシュートで降下したが負傷していたため死亡。映画「トップガン」の劇中にあったように、この当時も脱出の際に頭部や頸部を損傷することがあったという。

 

私が聞いた話は「落下傘で降りてきた、竹槍をもって捕まえに行った、しまったそうだ」「米兵が履いていた靴を見せてもらった、とても大きな靴でおどろいた」というもの。

 

足利市田中町に墜落したTBM搭乗員の慰霊碑が、群馬県邑楽町の清岩寺にある。石碑には、ジョン・F・ケネディー元大統領の甥で『特攻 空母バンカーヒルと二人のカミカゼ』著者のマクスウェル・テイラー・ケネディーが寄せた言葉が刻まれている。

 

「人間の持つ残酷さを克服しこの人生を平穏なものにしよう 日本の皆さんに心からの感謝を込めて」

 

 

 館林市上空「戦闘機VS戦闘機」の空中戦

ジャンボリー作戦に参加した艦載機は1000機とも。これが各地の飛行場・軍需工場を攻撃した。

 

2月16日午後群馬県館林市上空でF6F「ヘルキャット」と格闘戦を行った244戦隊本部小隊の鈴木正一伍長の「飛燕」が足利市に、同じく新垣安雄少尉の「飛燕」が館林市木戸町に墜落した。

 

新垣少尉機は桑畑へ落ちた衝撃で、地下に5メートル以上めり込んだという。少尉が搭乗したまま埋まった飛燕は、墜落から34年後の1979年2月に遺族立ち合いのもと、陸上自衛隊によって発掘され遺骨が回収されている。これは木戸町住民からの要望によって実現したものだった。

 

この日、陸軍飛行第244戦隊は未帰還8機、戦死者4名の被害を出した。小林照彦戦隊長の編隊僚機である、鈴木機・新垣機がこのうちの2機、2名。

 

小林戦隊長は終戦後、航空自衛隊に入隊。昭和32年6月 搭乗するT-33「若鷹」が墜落して殉職されたが、市街地に落とさないよう脱出せずに操縦したという。

 

 

百頭空襲の遺族は慰霊祭までも米軍機に脅かされたこと。TBM「アヴェンジャー」だけではなく、同じ日に陸軍の「飛燕」も足利・館林市に墜落していることを記しておきたい。

 

 

このほか私が聞いた空襲の話は「飛行機が見たくて防空壕から頭を出した男の子が米軍機の機銃掃射で亡くなった」(昭和20年7月10日足利市川崎町、艦載機の機銃掃射により死者4名の話か)

 

「B29の焼夷弾で焼け出された人のために、一人一品以上持ってくるように学校でいわれた。石鹸と手ぬぐいを持って行った」昭和20年8月14日の足利市本城・西砂原後町で死者6名を出した空襲火災の話。

 

 

私の親戚にもこの戦争でマリアナ諸島に出兵戦死した人がいる。大人の背丈よりも大きな墓石に軍服軍刀姿の写真タイルがはめ込まれていた墓も25年ほど前、遠忌の弔い上げを機に片付けられた。

 

終戦時に20歳の人も今年で95歳、足利の様子を当事者から聞ける機会は少ない。

足利富士浅間神社 初山のペタンコ祭開催中止の6月1日月曜日の朝に

 

初山のペタンコ祭が、新型コロナウイルス感染拡大の影響で開催中止。

 

館林市富士原町の富士獄神社 初山大祭や、7月に開催予定であった佐野市奈良淵町の火祭り(浅間山のおたきあげ)など、富士山信仰として子供たちの無病息災を願う祭りが中止になる。これは当然でありながらも残念。

コロナの終息を願いながら、祭りの開催場所についての余談を記す。

 

龍神に無病息災を願った麦わら竜

 足利の浅間山には竜の伝説があり、かつて山麓には龍ヶ淵と呼ばれた淵があった。

田中町「初山のペタンコ祭」では祭りの当日に、無病息災の願いを込めた授与品として麦わらで作られた竜の縁起物が頒布される。この竜をモチーフにした絵馬もある。

今年は祭りが中止なので、浅間神社に訪れても入手できないと思われる。

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現在の麦わら竜はすべて雄の竜で作られているようだ。

竜の髭とツノを整理すれば雌竜にも。

 

男浅間の絵馬では髭を生やした雄の竜が、女浅間では髭のない雌の竜が描かれた絵馬が授与される。雄竜と雌竜についての謂れはないのでお子さんの性別orお好みでOK。

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下段中央が足利の男浅間絵馬、左が女浅間。

 

 

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上の写真は足利富士山にて採取した笹葉と麦わら竜、となりは室の八嶋の竹葉と栃木市大神神社の授与品 ミニチュア草鞋

 

 室の八嶋の竹葉をお札に見立て、富士山に登拝した時代あり

フダ(箋・簡)とみなして竹葉を持ち浅間に登れば、雨に困らず簡単に登れそうな気もしてくる。

 

過去の富士登山で、終日雨に降られた時の話

 平成28年の夏に、迷走台風こと台風10号(ライオンロック)が来ている中で富士登山をした。午前中は下山をする人とすれ違ったが、午後には登山道はガラガラ。

雨により暑くもなく、渋滞もないときの富士登山は案外楽。

もちろん登山経験者の話であり、台風接近中に子供や老人を連れて行けば強風に煽られて転倒の危険あり。

 

山小屋で食事を取らなくてもよい準備(スタミナ管理)、全身ゴアテックス素材(登山靴、レインハット、レイングローブ)、ハイドレーションでの給水、サイドから中身が取り出せる登山リュック、強風対策をしたザックカバーなどしっかりとした登山装備のある人向きの話。

霧で視界が閉ざされたときの経験、素早く登って降りて来られる体力がない方などは、登山者が少ないというだけで遭難の危険が増す。

この日ある山小屋では、宿泊客が全員キャンセルしたとのことで早めに閉めていた。

 

速乾性素材の服など無い時代、蓑笠で雨天の富士山登山は大変だろう。

雨は山の下からも風に乗り吹き上げて来るし、強風の体感温度を考えれば疲労凍死があってもおかしくない。水行で体調を崩す人などは連れて行けなかったことだろう。

 

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「日本最高峰富士山剣ヶ峰」の石碑前にて

 3,776 mまで登った「麦わら竜」

 

足利市田中町女浅間にある大きな石碑「金山提箸翁碑」の話

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この石碑で語られている金山提箸翁こと提箸清七の本名は清行、富士山では「金山清」として知られていた人

金山の號からは富士の山頂で祀られた薬師如来垂迹神、鹿島金山大権現を連想する。

 

下野国安蘇郡上彦間村生まれ(現佐野市飛駒町)江戸~明治期に日光男体山や富士山に登り、富士講先達の荒井仰行に学ぶ。

富士登山七十五回、富士山の御中道に新道を開いた

この石碑には扶桑教足利別院のこと、飛駒村にに寄付をしたことなども記されている。

下彦間村から足利に抜ける手掘りのトンネル開通工事にも寄付しているかも知れない。

 

『富士中道巡』 宮崎紋吉著 明治38年(1905)に、金山清新道の記述あり。

天の浮橋から達磨石まで三里登って小山に出ていたルートに、近道となる新道を開いた人として紹介されている。

新道の碑に刻まれた、金山清(提箸清七)の御詠歌

「道にこる 山は眞(まこと)のひとすぢに ふもわけ初(そめ)し 富士の中道」

 

ここでいう「新道を開いた人」というのは、時短できるルートを見つけた人の意味。

大沢崩れの崩壊で時代とともにルートが変わった御中道。「崩壊消滅」など以外にも土砂崩れで道筋が変化するなどはあっただろうが、三里を三分の一に短縮するなどは、まさしく偉業なのだろう。

 

金山清新道の記述は、国立国会図書館デジタルコレクション 

『富士中道巡』中道之記(コマ番号43/66)にて確認できる。

 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765290

 

桜の木にとって新型ウイルス的脅威

 昨年、田中町浅間神社で多くのカミキリを捕まえた。浅間神社に限った話ではないが参拝者だけでなく、クビアカツヤカミキリを駆除するボランティアが減ることを考えると桜の木が心配。

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浅間神社 6月中旬ごろから成虫が現れて、桜の木にこのカミキリを多数見かける。天敵がおらず一匹が100~300産卵するという。幼虫が木の内部を食害するため枯れてしまう恐れあり。

特定外来生物

 

 

佐野市奈良淵町の浅間山 稲荷大明神にある「お仙水」の話

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浅間山の湧き水

 

 由来

佐野市奈良渕の山頂に鎮座し木花咲耶姫命を奉斉する。仙元神社の登山口に早川家の屋敷内にお仙水と称する湧水があり仙元神社へ登山する人はここで身を清めたという。

(この仙元神社はそののち)富士山頂より御今霊として奉斉され富士仙元と称し田の神山の神と商売繁昌、福徳円満、健康長寿、子孫繁栄、悪疫消除の御神徳高く更に神事として年年奉仕する「火祭」には近郷近村より列をなして多くの信者が登山し御神霊として火種を頂き一年中絶やさなかったと言う。現在では佐野市の年間行事として行われている。

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敬称をつけることで、これほど残念な気持ちになったのは初めて。

地震災害の影響におどく。

 

 

佐野市奈良淵町浅間山 安政3年(1856)の石祠に見る三猿

浅間山の中腹に、安蘇郡天明中町の先達 森島長行を願主とした石祠がある。

台座には武州埼玉郡小針村の渋澤徳行や、野州梁田郡久保田村の山田第行の名前が見られる。

この石祠の屋根は、他では見かけない形をしている。

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屋根の正面に聞かざる左面に言わざる、残念ながら右面の屋根が欠けてしまっているため見ざるの上半身が欠損している。

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棟には右卍の講印あり。

 

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 言わざる

 

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佐野市大栗町では、左右の破風に鶴と亀が彫刻された浅間宮を見る。

しかし屋根の三方に三猿が彫刻される石祠はここ浅間山でしか見たことがない。

 

この石祠が建てられた4年後の万延元年が庚申年であった。

次回の庚申年は、今年生まれた赤ちゃんが二十歳となる20年後の2040年。

 

石祠を過ぎて登ってゆくと石の鳥居があり、鳥居の柱には「武運 長久」とある。戦勝を祈願して奉納されたもの。

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足利市大月町の仙元宮には、戦勝祈願をして浅間三十三社を回った人の奉納物がある。佐野の浅間山でも戦勝祈願をする人が多くいたのだろう。浅間山の登山口となる小梥神社(小松)にある制空神社の石祠には、海軍を思わせる紋が見られる。

 

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群馬県館林市富士原町の富士嶽神社 拝殿外壁に見る足利の寄進者名

 

神社の拝殿外壁に寄進者の名前が彫られているのは良く見かけるが、壁に直接彫られている文字を見ていると職人の技術に感心させられる。

この中には足利の寄進者の名前も多数ある。たとえば勧農村の日下部氏と聞けば、川上講二代目先達 明行龍重に関係する日下部さんではないだろうかと連想する。

 

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富士嶽神社の大きな鳥居に見る、渡良瀬川の河岸がある村

 

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富士嶽神社の鳥居の柱には、足利郡猿田河岸の寄進者や奥戸講中の名が見られる。

北猿田村の石工 高瀬鹿蔵は、足利市伊勢町の伊勢神社にある「回漕問屋忠兵衛の石灯篭」嘉永2年(1849)を作った人。

 

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奥戸村(現足利市奥戸町)は下総国葛飾郡の古河藩領であったが、舟運を使えば現茨城県古河市も近い。

 

言いたいことは分かるうた

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 きれいな女神さまがいるところ

渡良瀬川 奥戸の余談

足利市奥戸町の仙元宮から西に歩いて行くと、渡良瀬川の土手を上る階段があり、その手前に大日尊と天照皇大神宮の石造物、階段を上ったところには水神宮の石碑がある。

 

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ここからは尾名川水門・出流川水門・多田木山が見え、

渡良瀬川の上流を見ると袋川水門も見える。

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渡良瀬川に旗川が合流して水量が増えることで、舟を使う河岸には適していた。川の合流が多い土地柄から台風など渡良瀬川や旗川の増水時にはバックウォーターのおそれがある。

 

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 奥戸堰の記念碑

 

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出流川の上流、多田木町にある奥戸堰(2014年6月撮影)

 

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先月の台風19号後の奥戸堰。この台風時に出流川では、バックウォーターによるものと考えられる堤防の決壊が起きている。

 

台風で避難する車のドライブレコーダーの記録(これ死ぬわ)から、10月12日の20時30分ごろには出流川が越水していることがわかる。5時間後の13日1時30分に国交省が尾名川と出流川の水門を閉じた。

水門が閉められたことで流れてくる川の水位は増すことになるが、バックウォーターによる被害の拡大を防いだ。

 

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奥戸堰の前には、昭和10年に旗川筋水害予防組合が建てた記念碑がある。(2014年6月撮影)

 

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出流川の越水で石碑の裏側が洗堀されていた。

 

記念碑には「足利郡富田村は東方旗川に南方渡良瀬川に臨み年々洪水の惨禍・・・」など、渡良瀬川・旗川・出流川による水害について記されている。

先月の台風19号では、記念碑の下流にて堤防が決壊しているので、記念碑がここに建つのにもそれなりの理由があるのかもしれない。

 

 

 只木山と富士山

 

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奥戸堰前にある多田木山は、戦国時代に長尾顕長が佐野宗綱と交戦した只木山であるという。また、明治期の地図にはこの辺りに富士山と記されているものがあるが、かつてあった寺の山号が富士山なので、その名残かと思う。

足利領主の長尾顕長は、刀剣「山姥切」の所有者で刀工国広にその写しを作らせた人。この二本の山姥切の銘にある平顕長。

 

 

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多田木山の西側にある卍紋のある祭神不明の石祠は、東側のピークを眺めるには良いところにあるので、浅間神社だと考える。

 

 

 奥戸の半鐘

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奥戸町の集会所にある半鐘は、享保8年(1723)奥戸村観音寺のもので、佐野天明の鋳物師 新井源七郎の作。

鐘をたたく撞座の摩耗を見ていると、災害時に打ち鳴らす人の姿を想像する。

 

現在の水門ではなかった時代は、川の増水時に村の人が水位を見て水門を閉めることになっていた。カスリーン台風の時にも半鐘が打ち鳴らされたという。

 

 

 尾名川と迫間湿地

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奥戸町の磯橋と尾名川

普段はこんな感じ。「磯」を感じさせるのは舟のみ。

 

 

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尾名川へと流れ込む川がある迫間町の迫間湿地。

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迫間自然観察公園の西の道。台風19号では車が完全に水没する高さまで冠水したようだ。これは怖い。

正面にある山が三足富士。

 

 

 

 

 

 

 

渡良瀬川 奥戸村の仙元宮の話し

 

 

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足利市奥戸町の集会所に、大きな仙元宮の石碑と卍講の

石祠がある。

地区内の石碑の一部が集められている感じ。

 

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石碑の台座には、溶岩と河原の石が埋め込まれている。

卍講の石祠は、傍示塚村の荒井仰行を先達とするもの。

 

近所にお住いのシュクさんにお話しを伺ったところ

「(仙元宮は)昔からここにあった」

「昔はちゃんとした道路もなく、舟で川崎に出ていた」

とのことであった。

 

渡良瀬川の舟運末期、奥戸河岸は猿田河岸よりも繁栄したと聞くが、大きな仙元宮の石碑も河岸の繁栄を連想する。台座に使われている溶岩は、舟運を利用したのだろう。

 

奥戸村の鎮守である春日神社の創建は、奥戸河岸の開設よりも百年以上は古いそうだ。

 

河岸関係者や富士講信者にとっても、鹿島神や経津主神

伊勢・八幡との三社信仰として、春日神への信仰心はより篤くなったことだろう。

 

 

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渡良瀬川の土手の近くにある、延宝5年(1676)の大日

尊像と、享保19年(1734)の天照皇大神宮石祠

 

 

先月の台風19号にて、仙元宮の辺りは大丈夫だったが、

近くの寺院の裏手では、床上浸水した家もあったという。

 

 

 

渡良瀬川 岩井山の余談 千年寺・乳房地蔵・長谷川角行



 岩井山千年寺の話し

千年寺は黄檗宗黒瀧山不動寺群馬県甘楽郡南牧村)の末寺であったが
明治7年に廃寺を申請、本尊の釈迦如来像は臨済宗の寺院に移された。

千年寺跡地にある廃屋は、のちの個人宅が倒壊しかけているもの。
ここには、六地蔵などの石仏・石祠・石塔・古そうな五輪塔の地輪などが残されている。

その中に、風化がひどく正面の文字が読み取れない石塔あり。
右側面に「文化四年(1807) 信州水内郡吉田村
左側面に「文化十年(1813) 上州吾妻郡小雨村」とある。

吉田村と小雨村の関係はわからないが、黄檗宗関係するのだろう。

ふたつの村から連想するのは、
天明3年(1783)の浅間山の被災地であること。
草津温泉の「冬住み」と関係が深い小雨村。
文化十年は、北猿田に五百羅漢堂が建てられた頃なのも気になる。


 岩井山と浅間山
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 黄檗宗浅間山普賢寺(長野県北佐久郡御代田町)は、浅間山の噴火を
鎮めるために開かれたと伝わる。
 岩井山千年寺の住職 月浦元照が、浅間山普賢寺の四代目住職として招かれたのが貞享3年(1686)。寺を開くのに尽力した~3代から、開かれた寺を任されたのが月浦和尚であった。

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   普賢寺山門の額 「浅間山」 正徳3年(1713)は、月浦和尚の筆

上州館林の黄檗宗萬徳山廣済寺や巌井山千年寺で修行した月浦和尚は、浅間山の麓から館林や足利を思い出したかも知れない。

 足利市松田町に定額山善光寺があり、善光寺阿弥陀三尊が祀られている。こちらの寺も以前は黄檗宗であったという。


 乳房地蔵の話し

千年寺の世話人を発起人として、岩井村で奉納した嘉永4年(1851)の鰐口が乳房地蔵堂に掛けられている。

渡良瀬川を流れてきた地蔵を岩井村の人達が川から引き上げ、お堂を建て祀ったものだと伝わるので、千年寺で作られた地蔵ではない。

乳房とは、お堂にお供えされた供物を利用した御利益により、母乳の出が良くなることに由来している。粉ミルクなど無い時代、縁日には多くの参拝者で賑わっていたという。

明治期に廃仏の対象になったが、県令に嘆願して御利益を確認してもらったことにより難を逃れたそうだ。

お堂の対面にある、寛政7年(1795)の水盤は勧濃村の人が奉納したものなので、赤城神社に関係するものかと思う。


 長谷川角行の話し

 角行が足利の岩井村で水行をしていたとき、堤の上から遠く長途路川に燈火があるのを見つけて、大月村の阿部氏の家に訪れ泊めてもらいながら修行をしたという。
この時に角行の徒弟となった人に、長谷川・福地・高田・阿由葉氏がいる。

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田中村からも大月村の灯りは見えたと思うので、岩井村~田中村付近から袋川および長途路川に沿って大月村にたどりついたのだろう。

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 岩井町から見た大月町方面 山の上に反射板が見えるところが天道山


渡良瀬川も堤防も村の位置も変わっているため、多分このあたりという話。
浅間山まで行ってしまうと、西山(助戸東山)が間に入るため村の灯りは見えないが、天道山の日月神社でかがり火でも焚いていれば見えただろう。

足利市大月町東耕地の仙元宮にある「赤富士御影」の一番下に彫られた部分が助戸東山だと(勝手に)考えている。


 火山と砂降り

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 田中条理跡の説明文を見ても、足利にとっての火山災害とは砂降り(火山灰)であるとわかる。

 


 



渡良瀬川 岩井山の話し 赤城神社・金刀平神社・浅間神社


 
岩井山は古くは勧農山と呼ばれ、勧農城址がある。
岩井村も古くは十念寺と呼ばれるところにあったが、渡良瀬川の洪水被害により勧農山へ移った。
 
岩井山には、赤城神社・金刀平神社石碑・浅間神社石祠あり。
明治十年代の三社の(社掌・祠掌・神官)は同一の勧農秀學。


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 勧濃村を勧農村へ改めたのが明治6年、勧農村住の秀學さん。


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足利市寿町にある時宗勧農山養念寺にも、勧農秀學を神官とする
明治14年(1881)川上講の浅間神社があった。
岩井山と同じく、川上講二代目日下部明行の石祠であったが、
こちらは現在なくなっている。
 
足利市大月町東耕地の仙元宮にある川上講マネキも、この講社の
もの。
 
 


 岩井山の赤城神社と勧濃村
 
 赤城神社にある延享元年(1744)・宝暦8年(1758)・文化13年(1816)の石灯篭をみると、勧濃村の人が奉納したとわかる。
 
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 渡良瀬川の洪水のため、勧濃の村社を岩井山に遷座したのが
 天保10年(1839) 石灯篭はそれに伴って移されてきたもの。
 


 赤城神社は岩井村や勧濃村だけでなく、猿田の河岸問屋などからも信仰されていた。金刀平神社(=金刀比羅)も同様。
 
現在は勧農岩井地区の岩井町・若草町・宮北町・寿町・昭和町(寿昭和)の計5町内が氏子となっている。
 
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若草町・寿町や隣接する千歳町などの町名からは、逆に渡良瀬川の洪水被害を感じる。
ちなみに宮北町とは神社ではなく、宮澤と北袋の古地名が由来。
 
 
 カスリーン台風と岩井山
 
岩井山へ車で行くには岩井分水路の上に掛かる岩井橋を利用しないと渡ることが出来ないが、かつては「へっつい土手」と呼ばれた堤防で渡良瀬川左岸の十念寺堤とつながっていた。
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 へっつい(=カマド)とは、土手の形状からの名称だろう。
 
 
昭和22年(1947)のカスリーン台風では、長雨の高水位によって土手が水を含んでゆるくなっていたところを、川の水が越水して決壊した。
洗掘で出来た深い押堀は、水害池や災害池などと呼ばれて昭和40年頃まで残った。
 


洪水対策のために作られた岩井分水路や河川改修により、岩井町は県庁足利庁舎前(パスポートのところ)から福猿橋の下までの広い河川敷も町域としている。
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渡良瀬川 南猿田の富士講碑



  旗本領であった南猿田村は明治8年(1875)塩嶋村・神明村などと合併   して梁田郡福富村となる 

 明和8年(1771)に南猿田河岸が出来て栄えた村であった。

 渡良瀬川河川改修により移築した鎮守の八幡宮境内には、地区内に
 あった小祠などがまとめられている。

 
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  八幡宮の石灯篭は、日本橋の笹屋が宝暦13年(1763)に奉納した
  もの。繁栄と安全を祈願したのだろう。
 
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         安政の大獄で知られる安政5年(1858)の石祠

 
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   南猿田の織屋の主人たちが中心となった講のようだ。
   織屋が儲かれば河岸問屋も儲かる時代のもの。

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         冨士小御嶽神社烏帽子岩 食行身禄

 「身禄の嶽とあらわれて三万めでとふ戸をさゝぬ御代」の御詠歌あり

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                若宮八幡宮 稲荷神社碑

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    願主 足利町の伊勢屋と、問屋・船主中が祀った船玉宮石祠
    (伊勢屋が金毘羅から勧請していたならばおもしろい)

 船着き場の正面にあったと思われる船玉宮の祭神は船玉神だが、
これを十二船玉と云う場合には、大日・春日・八幡や猿田彦神なども
含まれるという。

利根川高瀬舟などで、船玉神の御神体とされた二個のサイコロは
ピンゾロを上に向けて帆柱部に納め、「天に日月、地に十二船玉社」
の意味合いがあるようだ。川でも海でも日月様様だろう。



 足利に数ある八幡宮でも特に有名な、旧県社の下野國一社八幡宮
本殿胴羽目にある新羅討伐の彫刻には、新羅王・王子と八幡語源の旗。
武内宿禰八幡神を身に宿した神功皇后が見られる。(足利市八幡町)
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軍船を率いて海を渡ったという神功皇后の神話から、船玉大神を連想
する人もいただろう。

今では渡良瀬川浅間山の北側を流れているが、洪水で河道が変化
していたなかで、一社八幡宮の前を流れていた時代もあったという。