金山清行 山林斗藪の奇人

金山清行(1824‐1909)は江戸末期から明治時代に、赤萬字講や扶桑教などで活動した宗教家。富士登拝七十五回。外八海修行。

 

文政7年 近江彦根藩領の下野国安蘇郡上彦間村塚越生まれ。塚越は小字ではなく屋号だという。

幼名 傳十郎 通称 提箸清七 雅号 木花

上彦間村の提箸本家には、先祖が天皇に箸を献上して(寛和2年)提箸性を賜るという家伝あり。

 

根本山神講の先達「飛駒山大学院」に入り、法印に就て学ぶ。(大学院は根本山の本山修験)

 

16才の傳十郎は、病を患い苦しむ母親のために日光男体山に登籠して平癒祈願。日光二荒山神社への登嶽参拝五回。

 

文久3年 母が他界、諡(おくりな)八重櫻媛命。両親の葬儀を神式で行う。祖霊を改葬し檀籍を抜けようとして提箸家氏寺の住職とトラブル。

 

私邸内に浅間祠を建てる。田沼・佐野・下彦間・梅園・閑馬・名草助戸に小祠を建て説教所を設ける。

 

上彦間村要谷山城跡の浅間神社に参籠殿を造営して祭典を行う。(要谷山にある富士山に見立てた巨岩に浅間宮石祠あり、手前が平地になっている。)

 

上野国邑楽郡傍示塚村の赤萬字講 荒井仰行の門人として、明治6年に大願成就。

 

富士一山講社長 宍野半が、上彦間村に清行を訪ねて来る。

 

明治7年 神祇なる世になったと表明するため、宍野半や同僚数人と共に富士山頂での廃仏毀釈を行う。この頃、宍野半が清行に贈った和歌「むらくもの つるきぬきつつ くさはらい むかひ火つけて あたら残さん」(日本武尊伝説+惜しいが残さない)

 

明治8年 富士一山教会 教導職。小社長。

同年 富士山中宮小御岳神社で火災。御師注連澤興麿と共に現場に走り、清行が炎中に飛び入りご神体を運び出す。

 

明治9年 登山者のために富士山中道の開鑿を発願。

 

明治12年 清行設計の扶桑教会足利別院が認可される。同14年 家富町に竣功。

 

明治13年 富士山中道に金山清新道を開山。

「道にこるこゝろまことの一すちに ふみわけ初めし富士のなかみち」と巨岩に刻む。

 

明治22年 上彦間村を飛駒村に改称。現在の佐野市飛駒町。)

 

明治?年 富士登山七十回の記念碑を富士北口吉田に建てる。

 

明治33年 扶桑教足利別院内に薬院を開設。富士山の仙草を使った薬湯を一般にも開放。

 

明治35年 足利町に「第壹世管長宍野大我報恩碑」を建てる。後に名草岡成山内へ移設。

 

明治42年86才没。骸、赤石山上の地に永く冷かならんとす。(赤石山は足利町北部の山)

同年7月8日 山辺村大字田中の女浅間神社にて、顕彰碑「金山提箸翁碑」の除幕式を行う。

 

              

 

大正2年 清行の子、相模国一之宮 寒川神社禰宜 提箸亀男が『金山清行小傳』を発行(非売品)祖前に供える。また、清行の先輩知友の宍戸璣・稲葉正邦・田中頼庸・宍野半・新井荒行・小澤彦遅・富士玉山・田邊調・碬稲綺求諸氏の霊前へ捧げる。

 

 

 

 

大正10年 足利町が足利市となる。昨年で市政100周年。

コーエーテクモホールディングスとコラボした100周年記念事業ポスター(信長の野望・新生)で交通安全を推進。101年目の今年は山林火災防止のコラボポスターを制作。

空気が乾燥する季節、登山者の不注意による山火事が無いことを祈る。

 

 

 

 

 

 

 

 

余談

栃木県日光 鹿 一週間で消失

科学雑誌『Scientific Reports』掲載(2022年9月30日)

https://www.nature.com/articles/s41598-022-20465-4