足利市本城町の富士講碑
足利町の北部(足利市の北部ではない)本城村を昔は「あけしの里」といった。
本城一丁目に、山頂の岩を富士山に見立てた山あり。本城では富士山と呼ぶ。
昭和38年から始る「足利駅前土地区画整理事業」により、足利学校の東にある善徳寺の墓石(3408基)が本城一丁目に移転した。移転場所の不公平が出ないように考慮するとともに、要望にも出来る限りの配慮をしたという。
本城富士と大先達 正田正行(1786 - 1857)の江戸時代に建てられた墓石。戒名は冨翁正行。元から本城墓地にあったのか、市街地開発により本城富士を見上げる場所に移転したか。
月参講の元祖は、上州邑楽郡館林の直山明行。明行は静岡県富士宮市人穴富士講遺跡に富士登山六十六度碑(元治元年1864)を建てている。
萬字講・月参講・助戸参明講・川上講・大月村の村上講も扶桑教に属した。富士一山講社が設立した際に、これらの講社をまとめたのが金山清行。信徒曰く金山講社。
江戸時代の大先達や明治時代の少講義の墓碑が、足利を見渡す本城富士の近くに建てられているのは、移転による偶然か。
余談
富士一山教会講社の板マネキが足利市大月町にあり。樺崎町には奉納額もあるが、こちらは墨が薄くなり読み取れないのが残念。
富士山信仰に篤い親が、富士男丸・亀男・富士松など子供に名付けるのは少しかわいそう。初山祭の団扇に書くにはいい名前かもしれないが。
現在でも漢字で誤魔化せるミッキー(ミツキ)はいいとして、ミニー(ミニイ)はかわいそうだと思うのと同じように、富士山にまつわる名でも違和感のない名前がよかったと思ったかも。
善徳寺本堂の天井板絵(126枚) 富士山に落款。
二代目 正田正行や金井鷲蔵も見上げたか。
126枚ある板絵を組み合わせれば、法話も広がりそう。
天井板絵には、日清戦争(明治27-28)の戦勝を祝う気持ちが込められている。