御師の家「毘沙門屋」と足利の富士講 その1

コロナで外出を控えていたらもう大晦日。昨夜テレビを見ていたら開戦から今年で80年とあった。戦後ではなく開戦から何年というのもあるのだなと当たり前のことを思う。

今年は明治政府によって御師職が廃されてから150年。足利市の市政100周年だった。

来年の干支である寅=虎は毘沙門天の使い。

寅年を迎えるにあたって、むかし毘沙門屋で見た足利の富士講について書いてみる。

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御師の家「毘沙門屋」とは

山梨県富士吉田市の上吉田にある毘沙門屋は、昭和25年頃に廃業したという御師の家。

毘沙門屋は「冨士北口講社」に参加した御師の家。後に神道扶桑教になる「冨士一山講社」に参加する御師の家との関係は気になるが今更のはなし。

 

冨士北口講社については、明治9年に冨士嶽神社祠官の秦隆栄が書いた『冨士北口講社誓約並規約書』がある。ここでいう冨士嶽神社とは現在の「北口本宮冨士浅間神社」であり今の名称になったのは昭和21年。ちなみに浅間神社の総本山である静岡の「富士山本宮浅間大社」は昭和57年からの名称。明治維新などにより神社の名前も変化している。

 

冨士一山講社を立ち上げた宍野半は静岡の本宮浅間神社宮司であり、北口の冨士嶽神社社司も兼務した人物だが、宍野半は明治政府側の人間だとして反発した人もいたのだろう。

 

冨士北口講社が冨士北口教会となり神道冨士教会へと改称、御師の家「大外川」の外川重樹が冨士教会長となる。

毘沙門屋廃業時の当主 佐藤彰も何代目かの冨士教会長であった。冨士教会の衰退や神道大教に参加する経緯を知る人物。毘沙門屋で見る足利の富士講も冨士北口講社~冨士教会に参加した上野国新田郡下浜田村の大先達光山林行の門人たちである。

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毘沙門屋にある板マネキや、寄付連名の奉納額には足利郡小俣村・松田村の講社が見られる。

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保存する金剛杖には「栃木県足利郡三和村大字松田村 大正4年8月10日登山 萩原○○○○」の銘あり。普通の金剛杖も106年前の富士登山で実際に使われたと想えば感慨深い。徒歩で帰らなくなると杖は残してゆくのが一番手軽。

大先達光山林行門人の講社に足利郡松田村の萩原保三がいる、杖の持ち主もこの萩原氏の関係者だろうか。明治22年から松田村は三和村の大字になるが、三和村五代目の村長が萩原姓。

 

冨士北口教会に参加した足利郡の村としては、小俣村・黒川村・葉鹿村・大前村・五十部村・大岩村・足利町・松田村などがある。大岩村といえば大岩毘沙門天、毘沙門屋の屋号に反応しそう。

上記の村は足利町を除いて江戸時代の文政改革で結成された「改革組合村」で小俣村組合寄場に属した村々であり養蚕や織物業が盛んだった地域。

富士講には関係ない古い話をすれば、足利町・小俣村・松田村・粟ノ谷村(後の三和村粟谷)は、元禄12~13年に甲斐国谷村藩領がある村。元禄12年は谷村藩主秋元喬知が将軍徳川綱吉の老中になった年で、13年は谷村藩が下野国足利郡・都賀郡などに1万石加増された年。喬知は谷村藩にて織物業を奨励、河口湖から新倉村まで約3.8km日本最長の手掘りトンネル「新倉掘抜」を開削した人。

徳川綱吉上野国林城主の頃、現在の佐野市喜多山町にある浅間神社を修繕したとされる。食行身禄の著書「一字不説の巻」に生類憐みの令で人の命を取り資金を費やした咎人として徳川綱吉が出てくる。

館林藩領が佐野にも足利にもあったなど、江戸時代は一つの村にも幕府領・旗本領・寺領などが入り乱れているので村として行動するときに問題があった。「改革組合村」では領主の違いに関係なく組合村として防犯などに対応した。

 

小俣村を寄場村として編成された組合村と、光山林行の門人がいる村。養蚕・織物業が盛んな村はリンクしている。富士山の神様は養蚕の神としても信仰されていた。

織物産業を統括した小俣村の大川家住宅は大門や式台を持つ元機屋敷であり、国の登録有形文化財に指定されている。毘沙門屋にある奉納額には小俣村の講社に参加する大川繫右衛門の名前がある。

 

神道冨士教会の講社は新田郡の光山林行が元講になるので足利西部に片寄っている。

松田村から馬打峠ごしの月谷村は扶桑教エリア。藤坂峠ごしの隣村である名草村には金山清行の講社がある。かつて足利には扶桑教足利分教会があり、田中町浅間神社の大きな石碑で顕彰されている金山清行(提箸清七)が扶桑教で活動していた。

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金山清行は金山清とする。富士山の御中道で発見した近道の名称も「金山清新道」としていた。



 

 

謎の村「三品村」のはなし

『上吉田の民俗』の348・345ページに毘沙門屋の講社として赤卍講(群馬県新田郡生品村・宝泉村、大間々村、栃木県足利郡三品村)と記載されている。

足利郡に三品村は無く、毘沙門屋にて足利郡三和村を目にしているので、新田郡生品村と混同した誤植だと気に留めなかった。

 

富士吉田市などが富士山の世界遺産登録をめざして活動。2012~13年御師の町を観光資源とするためのプロジェクトに協力する御師の家の入口に、家の歴史を紹介するパネルが設置される。毘沙門屋にも歴史パネルが建てられたが、そこでは栃木県足利郡三品村と記載されている。

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毘沙門屋の歴史パネルは試作品が作られているが。試作品での村名は中抜き4文字で「三_ 品村」となっていた。ふたたび出会った謎の村が本当にあるのか気になり足利郡や梁田郡、現在桐生市になっている足利郡の村を調査した。

北里村や堀島村などの併合・分村パターンと、小谷村や箭竹邑など旧字や小字が村として表記されるパターンを調べてみたが三品村は見つからなかった。

「足利郡三品村?」と疑問に思う人は皆無だろう。足利の三和村はなくなり今では三和地区として名が残っている。

歴史パネルが間違えているのを指摘したいわけではなく、謎の村を調べている中で松田村に仙元宮の石祠を見つけたり、月谷村青沼の浅間神社を見つけることが出来た。疑問に思ったら一応調べてみるものだなと思った出来事。

 

登山をするだけではなく富士吉田の町を散策するのも面白いと思う。

 

下記の写真は本町通りから一つ東側の裏通りで見た風景

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お気に入りの石、梵網経の汝是畜生ではないところがポイント。

南総里見八犬伝を連想する。