足利市小俣町冨士嶽神社の奥宮(群馬県桐生市菱町一丁目米沢浅間神社)  

 

明治33年(1900)小俣村の寶山傳行講社が、足利郡菱村米沢の雷電山に奥宮を建てる。40数年前は足利郡米沢村の山であった。

 

下野国足利郡米沢村は、安政年間(1854‐1860)に村を二分して、小友村と小俣村に併合し消滅。小友村は明治8年に黒川村、明治22年に菱村となり、昭和34年に群馬県桐生市菱町となる。越県併合するまでは桐生川左岸の浅間山も栃木県足利郡。

 

 

水辺の里宮と遥拝する奥宮。小俣村の有力者が集う講社ならではのスケール。

ご当地富士山として、明治33年からの3年間で山内が整備されていった。

 

 

冨士嶽神社から北に1.2Km。大先達傳行襲名の記念行事として奥宮を建て、その後に南方に神社を再建したものか。

奥宮には遷座、冨士嶽神社に遷宮の記録あり。

 

 ご当地富士山

参道入り口には鳥居があったというが、道幅を広げるために山裾が削られて崖になっている。

 

庚申塔や大黒天石碑などが集められている南に、一対の幟立てが倒れている。かつての参道入り口。

 

 

昭和45年発行の『菱の郷土誌』には、年に一度の祭りが行われているらしいとの記載あり。

 

信仰が廃れ、参道も藪に飲まれてわからない状態。

等高線のように、けもの道と交差するが、鹿が走り回っているので即通過。けもの道は歩きやすそうに見えるが誘わされずに直登。

 

 

 

 

 

小俣町冨士嶽神社の境内には、冨士守稲荷神社の石祠があるが、こちらの表記は「富士森稲荷大神

 

京都の伏見稲荷が「藤森稲荷」と呼ばれていたのを連想する。

 

山梨県北口本宮冨士浅間神社では、冨士守稲荷社。

 

 

富士山吉田口登山道の馬返しにある木造の小祠は、富士守稲荷大明神

 

 

 

 

山の中腹から岩場が多くなり、ちょっと富士山っぽい。

 

 

ここにきて「高尾山飯縄善神」の石碑。

傳行講社でも高尾山は人気の山らしい。

 

 

大先達寶山傳行講社中 明治36年の「仙元宮」石祠には、台石正面に「北口講」とある。

ご神体は富士山の溶岩である、頂上神石。

 

 

 

 

大きな岩影に「亀磐龍神」の石碑。

富士山八合目にある亀岩は、亀岩蓬莱八大龍神・蓬莱山亀岩八大竜王などと呼ばれる水神。

 

チャートは鏡面にも見えるほど切立つ硬い岩。

 

 

 

 

 

食行身禄霊神」の石碑 明治35年(1902)には、

大先達 寶山傳行とあり、寶山藤行 寶山羽行の名前が続く。

群馬県太田市成塚浅間神社の石碑(明治24年)にあった寶山明行が傳行を襲名し、行名を賜った羽行が加わっている。

 

小俣町冨士嶽神社の現在の社殿が建立されたのが昭和10年(1935)なので、羽行が富士登山三十三度大願成就を達成した記念行事として再建されたのかも知れない。

 

 

 

 

なんとなく亀の頭に見える大きな岩。

頭の下に容器を置けば石清水が溜まりそう。

 

 

 雷電山の南にあるピークの冨士山石祠

小俣町冨士嶽神社の奥宮ではあるが、『菱の郷土誌』にあるように「米沢浅間神社」の名称でいいと思う。

 

 

額の文字には金箔でも使っていたのか、色が残る。

 

 

二代目寶山傳行の没年が明治39年

三代目寶山傳行が活動していたころは、ご当地富士山として登られていたのだろうが、明治36年以降は富士講碑や石宮などは建てられなかったようだ。

 

一つの講社が整備したご当地富士山として充実していた分、参道を登る者がいない現状はとても残念な富士山。