足利市小俣町の冨士嶽神社 登山三十三度碑

 

 

 

足利市小俣町の冨士嶽神社にある明治34年(1901)登山三十三度碑は、33回の富士登山をへて大先達となった二代目寶山傳行の記念碑。

 

主な碑文は表面に

大先達寶山傳行 登山三十三度碑 東毛山下允升拝書

 

(裏面)

富士北口吉田 中教正佐藤嗣根

 

寶山傳行風崇信富士大神万延元年々甫十五従大先師光山林行貴山城行登山遂遷霊於上州新田郡成塚尓後登礼不懈明治五年開講社山田郡毛里田村七年初賜行名於北口本院八年遷霊於村之鎮守社内講中之力也十年与教山實行師結兄弟之義同総理講社教務是歳開講社當所十二年祀尊師於旧里十六年補教導職當村講中有大橋氏以醸酒為業篤仰神徳毎歳登山不懈拝受岳頂金銀明水以為醸造之源種自是醸法漸食家業年榮氏深感神恩十九年載頂上神石帰奉祀之於家又有周藤氏傳行所寓也二十三年両氏合議協講中之力建社遷祭神霊二十五年結永續社三十年納永續金三十圓三十三年献金ト地於菱村雷電遷座東岳大神為奥宮三十四年建立登山三十三度之碑亦皆依講社之力也于時年六十一所願開満傳行姓羽鳥称茂十郎父曰茂平治上州新田郡成塚産

明治三十四年十一月十日建立

 

 

寶山傳行に続く五文字目が読めない。これが敬称であれば足利市田中町の女浅間神社にある「金山提箸翁碑」などに見られる翁や叟。

富士講碑で見る敬称の「真」などになりそうであるが、ぱっと見は「風」に見える。

 

初代寶山傳行の戒名が「富岳慶風」であり、足利市月谷町青沼浅間神社に建てられていた「扶桑教大講義小澤三郎次之風之碑」などから、「風」が敬称として使われても不思議ではないが不明。

 

碑文にある「富士北口吉田 中教正佐藤嗣根」は御師毘沙門屋の当主。

 

 

 

上州新田郡成塚産の寶山傳行について

 

 

群馬県太田市の成塚稲荷神社境内にある明治10年(1877)元祖食行身禄尊師碑には、当所(成塚村住)寶山傳行とある。

 

 

 

 

大先師光山林行

 

 

群馬県太田市の金山浅間神社境内にある明治20年(1887)光山林行の登山六十六度大願成就碑に寶山傳行の名前あり。

 

 

 

大先達寶山傳行

 

 

太田市成塚浅間神社にある明治24年(1891)北山孝行の登山三十三度大願成就碑では、大先達宝山傳行とあり、

宝山明行 宝山藤行の名前が続く。

(写真奥側石碑の裏面)

 

 

群馬県にある三か所の富士講碑で見られる初代寶山傳行が足利の小俣村へ。

 

三代続いた大先達寶山傳行の墓が小俣町にあり。初代の戒名が「富岳慶風」であり、二代目は「寶山傳行」がそのまま戒名になっている。

 

初代の戒名からは、鬼の国から来る悪い風を吹き返すという富士の神風(八戻の風)や富岳神風を連想する。

 

 

 

兄弟之義を結んだ教山實行師

 

太田市の金山浅間神社境内にある一合目の石碑は教山實行が建てたもの。

光山林行の講社は太田金山をご当地富士山としている。

 

 

 足利へ移住した寶山傳行は、二代目になって足利郡菱村に講社専用のご当地富士山を得た。現在の菱町は群馬県桐生市編入されているが、当時は足利最高峰の富士山。