晴山講の富士参詣 絵馬と天狗と卍の向き

江戸時代中期、富士山北口登山道の茶屋として開業した「中の茶屋」(山梨県富士吉田市)に
建てられている、野州晴山講「(右卍) 登山百十一度 晴山永行(大正十年)」の富士講碑。

イメージ 1

石碑には紙垂(しで)やワラジが結ばれていた。

  (中の茶屋の向い側には、現埼玉県の卍講碑が二つあり。)


この碑は、栃木県栃木市の大平山にある富士講碑「(右卍) 登山百八度 晴山永行(大正九年)」の
翌年に建てられたもので、この年だけで三度の富士登山をしたことがわかる。
交通機関が整備されても、栃木県から一年に三度は大変そうです。




 富士山麓「中の茶屋」に建つ晴山講の石碑は、北口御師 上文司による書。

 大平山の石碑は、最後の宇都宮藩主 戸田忠友が、宇都宮二荒山神社宮司をしていたときの書。


  (日光の二荒山神社明治26年まで、最後の会津藩松平容保日光東照宮宮司と兼務した。)



 
 晴山講の人達が、栃木~山梨県まで歩いて富士登山をしていた頃の様子がわかる
「晴山講富士参詣絵馬(明治33年)」が、御師 上文司家に所蔵されている。

 これは晴山永行の娘が願主となって、講の定宿である上紋司家に奉納したもの。


イメージ 2

大勢の講員がいる中で、道案内・旅の神である「 天狗 」の旗を持つ者だけが
右卍の傘印として描かれている。

この天狗は、小御嶽神社を象徴した天狗であるとともに旅の無事を願ったものだと思われます。



「道案内=講の先達」であれば、大勢の中で一人だけが右卍である理由がわかります。
または、特定の条件(登山三十三回&内八海&御中道八回など)をクリアした大先達が
おもに右卍を使用したと言うのであれば、富士講碑やマネキに右卍が多いことも理解できます。


(ここは等々力警部に登場してもらって「よし! わかった!!」と言ってもらいたい。)




しかし、他の卍講を見てみると、大先達のマネキに左卍を使ったものがあり、
この天狗にしても、大山講に由来する天狗と明確に区別がつきません。



 一枚の絵馬からすべてがわかるはずはないので、他にもこの絵馬から何かを連想するとすれば、
足利にある「赤富士御影」(富士山の木型)を思い出します。

足利の赤富士御影 右ラインの中央には、(三つの先端がある岩?)で表わした小御嶽石尊と
思われる彫刻がある。 晴山講の絵馬にある背景の富士山にも右のライン中央が少し盛り上がって
見えます。(決めつけからくる確定バイアスですが。)


富士塚を見ても小御嶽の石碑・石祠があることから、富士参詣において小御嶽神社
ひとつの目標地点だったのでしょう。

どんなに悪天候であっても、三合目近くの富士山遥拝所女人天井(女性の登山が黙認された所)より
上には登りたいと考えたでしょうし。