渡良瀬川 南猿田の富士講碑



  旗本領であった南猿田村は明治8年(1875)塩嶋村・神明村などと合併   して梁田郡福富村となる 

 明和8年(1771)に南猿田河岸が出来て栄えた村であった。

 渡良瀬川河川改修により移築した鎮守の八幡宮境内には、地区内に
 あった小祠などがまとめられている。

 
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  八幡宮の石灯篭は、日本橋の笹屋が宝暦13年(1763)に奉納した
  もの。繁栄と安全を祈願したのだろう。
 
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         安政の大獄で知られる安政5年(1858)の石祠

 
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   南猿田の織屋の主人たちが中心となった講のようだ。
   織屋が儲かれば河岸問屋も儲かる時代のもの。

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         冨士小御嶽神社烏帽子岩 食行身禄

 「身禄の嶽とあらわれて三万めでとふ戸をさゝぬ御代」の御詠歌あり

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                若宮八幡宮 稲荷神社碑

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    願主 足利町の伊勢屋と、問屋・船主中が祀った船玉宮石祠
    (伊勢屋が金毘羅から勧請していたならばおもしろい)

 船着き場の正面にあったと思われる船玉宮の祭神は船玉神だが、
これを十二船玉と云う場合には、大日・春日・八幡や猿田彦神なども
含まれるという。

利根川高瀬舟などで、船玉神の御神体とされた二個のサイコロは
ピンゾロを上に向けて帆柱部に納め、「天に日月、地に十二船玉社」
の意味合いがあるようだ。川でも海でも日月様様だろう。



 足利に数ある八幡宮でも特に有名な、旧県社の下野國一社八幡宮
本殿胴羽目にある新羅討伐の彫刻には、新羅王・王子と八幡語源の旗。
武内宿禰八幡神を身に宿した神功皇后が見られる。(足利市八幡町)
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軍船を率いて海を渡ったという神功皇后の神話から、船玉大神を連想
する人もいただろう。

今では渡良瀬川浅間山の北側を流れているが、洪水で河道が変化
していたなかで、一社八幡宮の前を流れていた時代もあったという。