渡良瀬川 岩井山の余談 千年寺・乳房地蔵・長谷川角行



 岩井山千年寺の話し

千年寺は黄檗宗黒瀧山不動寺群馬県甘楽郡南牧村)の末寺であったが
明治7年に廃寺を申請、本尊の釈迦如来像は臨済宗の寺院に移された。

千年寺跡地にある廃屋は、のちの個人宅が倒壊しかけているもの。
ここには、六地蔵などの石仏・石祠・石塔・古そうな五輪塔の地輪などが残されている。

その中に、風化がひどく正面の文字が読み取れない石塔あり。
右側面に「文化四年(1807) 信州水内郡吉田村
左側面に「文化十年(1813) 上州吾妻郡小雨村」とある。

吉田村と小雨村の関係はわからないが、黄檗宗関係するのだろう。

ふたつの村から連想するのは、
天明3年(1783)の浅間山の被災地であること。
草津温泉の「冬住み」と関係が深い小雨村。
文化十年は、北猿田に五百羅漢堂が建てられた頃なのも気になる。


 岩井山と浅間山
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 黄檗宗浅間山普賢寺(長野県北佐久郡御代田町)は、浅間山の噴火を
鎮めるために開かれたと伝わる。
 岩井山千年寺の住職 月浦元照が、浅間山普賢寺の四代目住職として招かれたのが貞享3年(1686)。寺を開くのに尽力した~3代から、開かれた寺を任されたのが月浦和尚であった。

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   普賢寺山門の額 「浅間山」 正徳3年(1713)は、月浦和尚の筆

上州館林の黄檗宗萬徳山廣済寺や巌井山千年寺で修行した月浦和尚は、浅間山の麓から館林や足利を思い出したかも知れない。

 足利市松田町に定額山善光寺があり、善光寺阿弥陀三尊が祀られている。こちらの寺も以前は黄檗宗であったという。


 乳房地蔵の話し

千年寺の世話人を発起人として、岩井村で奉納した嘉永4年(1851)の鰐口が乳房地蔵堂に掛けられている。

渡良瀬川を流れてきた地蔵を岩井村の人達が川から引き上げ、お堂を建て祀ったものだと伝わるので、千年寺で作られた地蔵ではない。

乳房とは、お堂にお供えされた供物を利用した御利益により、母乳の出が良くなることに由来している。粉ミルクなど無い時代、縁日には多くの参拝者で賑わっていたという。

明治期に廃仏の対象になったが、県令に嘆願して御利益を確認してもらったことにより難を逃れたそうだ。

お堂の対面にある、寛政7年(1795)の水盤は勧濃村の人が奉納したものなので、赤城神社に関係するものかと思う。


 長谷川角行の話し

 角行が足利の岩井村で水行をしていたとき、堤の上から遠く長途路川に燈火があるのを見つけて、大月村の阿部氏の家に訪れ泊めてもらいながら修行をしたという。
この時に角行の徒弟となった人に、長谷川・福地・高田・阿由葉氏がいる。

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田中村からも大月村の灯りは見えたと思うので、岩井村~田中村付近から袋川および長途路川に沿って大月村にたどりついたのだろう。

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 岩井町から見た大月町方面 山の上に反射板が見えるところが天道山


渡良瀬川も堤防も村の位置も変わっているため、多分このあたりという話。
浅間山まで行ってしまうと、西山(助戸東山)が間に入るため村の灯りは見えないが、天道山の日月神社でかがり火でも焚いていれば見えただろう。

足利市大月町東耕地の仙元宮にある「赤富士御影」の一番下に彫られた部分が助戸東山だと(勝手に)考えている。


 火山と砂降り

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 田中条理跡の説明文を見ても、足利にとっての火山災害とは砂降り(火山灰)であるとわかる。