..が出現した胎内洞穴

 
 船津胎内樹型

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 江戸末期の御胎内入り口のイメージは宝珠とでも

絵の中には安産祈願の品となるタスキとロウソク、洞穴内を這うための膝当て草鞋などが見られる。

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  入口に社殿が建てられた明治期でもイメージは変わらず

 祭神は木花咲耶姫命のちに吉田胎内が開かれると冨士北口元祖胎内
 をうたう


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   焼けて黒い


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       母の胎内にて潜る石 イメージは

     奥に木花咲耶姫が祀られている



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             父の胎内の奥に子安観音 前にはニニギ像 



約20mの母の胎内、約15mの父の胎内、総延長約68mという複合型溶岩樹型である船津胎内は、食行身禄の弟子と言われる日行青山が発見したという。青山の没後に改称して丸藤講となり八代先達日行星山が発見整備したのが吉田胎内になる。

角行を重視する人は、船津胎内の発見者を角行としたようだ。



 船津・吉田の両胎内には、約20mの母の胎内があり、安産祈願の現世利益とともに富士登山の前に身を清める場所であるとした。ニニギとコノハナサクヤヒメの夫婦神が祀られ安産を願うという行為は、足利などで見られる隣接する星宮・浅間社などでも同様に祈願されていたと思う。


 修験の禁止が明治五年。足利の胎内洞穴で加持祈祷が行われ始めたのが吉田洞穴の発見よりも遅いということはないだろう。船津ほど古ければ「御胎内」以外の呼称があったと思う、「角行の霊跡」などはその有力候補か。 角行の「跡」が他にあるならば、加持祈祷は恐れ多いと考えたとしても、なにかしらの伝承が残りそうな気がする。

もっとも御師と関係をもつ当時の人で、足利に伝わる「角行の霊跡」などを公言する者などはいなかったことだろう。