馬打峠と忠綱の悲話

年に数回利用する峠みちのテッペン付近にて、光のよどみが
良かったので、車から降りて少し撮影してみました。


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     車で走り去っていたら、道路の影模様には気が付かなかったですね。


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     植物の生きるたくましさは、すごいです。

     私の想像力も、たくましいのでしょうか?

     微妙な陰影が、撮れました。 (下心は無いのですが…)


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市民に大日様と呼ばれ親しまれている、鑁阿寺が出来る以前(1195年)に
足利氏邸宅内で待女 藤野が起こした、籐姓足利氏最大のスキャンダル事件に
まつわる足利忠綱の悲話があります。

簡単に概要だけ紹介すると。

 領主の足利義兼が、源 頼朝に従って半年ほど足利を留守にする。

 留守を預けられた客将の忠綱に恋をした、待女の藤野が告白するが失恋。

 義兼帰館の際、藤野は「忠綱が夫人と密通した。」とウソの報告。

 真に受けた義兼の激怒に、忠綱は鞍も付いてない裸馬に乗って逃亡。

 追っ手から追われる途中、峠の急坂で馬が足を滑らせ忠綱が落馬

 入彦馬郷 貝沢(現 桐生市梅田町皆沢)まで逃げた忠綱が討ち死に。

 夫人は身の潔白の証に自害。その後に藤野のウソがばれる。

 真相がわかり義兼は激怒、藤野には牛裂の極刑が下される。

 義兼夫人とは「尼将軍 北条政子」の妹であり、政子の知るところとなる。

 夫人の死後、義兼は剃髪し高野山に入る。(後に仏像を背負い諸国を巡る。)

 義兼は足利の樺崎寺に隠棲し、同寺にて生入定(1199年)と伝わっている。(現 樺崎八幡宮


忠綱は十七歳にして「平等院の戦」で手柄をたて、平 清盛からも賞された豪将。

北条氏の歴史書である「吾妻鏡」にも、

 「末代無双の勇士なり。三事人に越えるなり。所謂一にその力百人に対すなり。
  二にその声十里に響くなり。三にその歯一寸なり」と記されている。

そのようなが忠綱が無実の罪で死んでしまうとは、なんともあわれですね。


義兼が高野山に入ったのは、鎌倉幕府の隠密になったからだと言う説。
北条政子から足利氏を守るためだとの見解もあり、こちらのほうも真実はわからないです。


(参考出典 「吾妻鏡」 「足利の伝説」)