富士山頂の胎蔵曼荼羅

江戸の時代、富士の山頂を『八りう』と呼んでいた。

1300年頃の記録にも、「いただきに八葉の嶺あり」とあり
さらに古い時代から『八りう』と呼んでいたと思われるが
これは富士の頂上にある 8つの峰(八神峰)のことである。

この八神峰を、密教曼陀羅に描かれる『八葉蓮華』 (8枚の花弁を持つ蓮の花) に
たとえて「八葉」と言う。

明治初期の廃仏毀釈運動がおこる以前は、<大日如来浅間大神木花咲耶姫
であると考えられ、富士の山頂は仏教の世界観と深く係わっていた。


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「八葉九尊図」 延宝8年(1680年)
栃木県から見える裏冨士(北口)が描かれ、図中の「下浅間」は
のちに富士行者の村上光清が再建をする、現在の北口本宮冨士浅間神社


また富士行者は、八神峰を時計回りに巡拝して「お八巡り」と言ったが
今では峰の頂上は通らず、火口の周りを一周することを「お鉢巡り」という。

低酸素の富士山頂での「お八巡り」は、大変危険な山岳修業であった。




浅間大神(浅間大菩薩)の本地仏大日如来との本地 垂迹説により
久安5年(1149)末代上人は、富士の頂上に大日寺を建てた。
(現在の富士山頂上浅間大社奥宮の場所にあった。)


大日如来は、『金剛頂経』と『大日経』の経典から
金剛界」と「胎蔵界」2つの世界観があるが
富士山の大日如来は「八葉蓮華の大日如来」と言うことから
胎蔵界大日如来(遍照金剛)とされた。

 日の光は、日の当たらない部分(影)を作ってしまうが
 大日の光明は「遍(あまね)く一切を照らし」慈悲の活動は永遠不滅といわれる。

(足利にある「仙元大日」も、宝冠をかぶり「法界定印」を結んだ胎蔵界大日如来像である。)
 


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足利市にある鑁阿寺の本堂に掛けられていた、室町時代作の両界曼荼羅
 「胎蔵界」の八葉蓮華 (中台八葉院)


真言宗大日派金剛山 仁王院 法華坊 鑁阿寺」は、市民には「大日様」と呼ばれ
足利を代表するお寺ですが、難しい寺号の意味がわからない人も多い。

「(バンナ)寺」とは、梵語サンスクリット)を音写したもので
 金剛界大日如来の種字「バン」胎蔵界大日如来の種子「ア」の
「(バン)・(ア)寺」であり、両界の大日 = 大日寺です。




<八葉蓮華?>

富士登山アイテムで有名な「金剛杖」は
四国八十八ヶ所巡礼などで使用する、角材の金剛杖とは違い八角である。

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八角のデザインは 八神峰(八葉蓮華)か

江戸時代の信仰登山では、登頂までは杖を突いて登り
下山をする時には、杖を担いで降りたという。
(*ローカルルールと思われ、全員がそうした訳ではないでしょう)

神仏の世界である富士山頂の土が付いた杖を、大切に担いで持ち帰った人達が
その杖をどのように使ったのかを考えると、足利で見られる「ペタンコ祭り」の
ハンコのルーツかも知れない。


(勝手な予想として「福山雅治=神」という人の場合)
 男の子を出産して間もない、福山雅治の熱狂的ファンの主婦がいて
 「福山雅治と握手して来た、もったいなくて手を洗ってない。」と言う友人の話を
 聞いたとしたら、(福山雅治=神との間接的な接触という意味で)
 「握手させて欲しい、そして息子にさわって欲しい。」と願うものと考えられる。