足利郡大月村の 「 四世 藤原月旺の御見抜」
天和3年、里帰りする権左衛門に誘われた「月旺・月心」が足利の大月村へやってくる。
月旺らと面識があった、父の斎藤与五右衛門も最高のもてなしで迎えたことでしょう。
月旺らと面識があった、父の斎藤与五右衛門も最高のもてなしで迎えたことでしょう。
この頃の足利では、夏年貢として蚕子(カイコの繭から紡いだ絹糸)の取立てが
厳しいことを聞いた月旺が「カイコ守りの札(護符)」を与五右衛門へ与えたところ
村の多くの者が欲しるので150~60枚書いたという。(うち56枚は月心が書いたもの)
厳しいことを聞いた月旺が「カイコ守りの札(護符)」を与五右衛門へ与えたところ
村の多くの者が欲しるので150~60枚書いたという。(うち56枚は月心が書いたもの)
大月村の川田家といえば、上杉謙信の家臣で沼田の城将「河田重親」が
「御館の乱」で敗れたのち領地であった大月村に帰農した一族であるといわれ
大月村の「蜜蔵院」開基家として知られている。
足利長尾氏の家臣帳でも、大月村「川田石見守」の名前を見ることが出来る。
「御館の乱」で敗れたのち領地であった大月村に帰農した一族であるといわれ
大月村の「蜜蔵院」開基家として知られている。
足利長尾氏の家臣帳でも、大月村「川田石見守」の名前を見ることが出来る。
上杉謙信(長尾景虎)は、足利勧農城が対北条軍の最前線であったり
岡崎山での話し(新田老談記)など、足利とは意外と関係が深い。
八幡町の「下野国一社八幡宮」に伝わる、安土桃山時代の「八幡郷検地帳」も
上杉謙信の指示で作られたと言われている。
岡崎山での話し(新田老談記)など、足利とは意外と関係が深い。
八幡町の「下野国一社八幡宮」に伝わる、安土桃山時代の「八幡郷検地帳」も
上杉謙信の指示で作られたと言われている。