足利郡大月村の  「 四世 藤原月旺の御見抜」

足利の大月村住「 斉藤与五右衛門 」の息子「権左衛門」は、江戸の茶問屋で働く
熱心な浅間信仰の信者であり、4世 月旺と共に、毎年富士山へ参拝をしていた。

天和3年、里帰りする権左衛門に誘われた「月旺・月心」が足利の大月村へやってくる。
月旺らと面識があった、父の斎藤与五右衛門も最高のもてなしで迎えたことでしょう。

月旺は、権左衛門から聞いていた「出流観世音」(日光山開基「勝道上人」修行の洞穴)や
後の時代に葛飾北斎が描いた足利の「行道山」に行ってみたかったようだ。

ちなみに、行道山浄因寺は和銅7年(714)行基上人開基とする古刹、栃木県名勝第一号。



この頃の足利では、夏年貢として蚕子(カイコの繭から紡いだ絹糸)の取立てが
厳しいことを聞いた月旺が「カイコ守りの札(護符)」を与五右衛門へ与えたところ
村の多くの者が欲しるので150~60枚書いたという。(うち56枚は月心が書いたもの)

ほかにも、月旺の「御見抜大巻物」2巻
     「(角行)公事の巻 」1巻
「拝み用の掛け軸」4~50幅 
     「山ゆるし」100枚
天気予想の本や、赤ちゃんの「百日の祝い(お食い初め)の守り」などが与えられた。

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藤原月旺御見抜(浅間信仰の教義を描いた曼荼羅) 天和3年(1683)

写真は、月旺が足利郡大月村の川田甚右衛門に与えたもの。
富士山の右下には、長谷川角行が修行の場とした人穴が描かれている。




大月村の川田家といえば、上杉謙信の家臣で沼田の城将「河田重親」が
御館の乱」で敗れたのち領地であった大月村に帰農した一族であるといわれ
大月村の「蜜蔵院」開基家として知られている。
足利長尾氏の家臣帳でも、大月村「川田石見守」の名前を見ることが出来る。


上杉謙信長尾景虎)は、足利勧農城が対北条軍の最前線であったり
岡崎山での話し(新田老談記)など、足利とは意外と関係が深い。
八幡町の「下野国一社八幡宮」に伝わる、安土桃山時代の「八幡郷検地帳」も
上杉謙信の指示で作られたと言われている。



PS.
出流観世音とは、洞穴の鍾乳石が「伏せ八葉の蓮華に後向きに立つ尊像」見えると
言うもので、勝道上人に始まる日光修験の聖地。
また、勝道上人は七才の時、「 明星天子 」から三帰依と四弘誓願を授かったと伝えられる。