足利市大月町の天道山から見る足利花火大会

足利市田中町の上浅間神社(男浅間)から見た花火大会を、足利市大月町の天道山から見る

 

 

 

 

天道山には整備された登山道がない。

足元を照らす照明の確保。蜘蛛は短時間で巣を張るなど、夜間登山の注意点がわからないと日中の登山よりも道迷いになりやすい。時間に余裕をもって、迷ったら登るが吉。

 

 

 

 

 

月神社(日の宮)石祠

 

花火大会の会場内放送がよく聞こえる。

以前行われた奉納花火(〇〇ちゃん誕生日おめでとう、両親より。ご奉納~~)のアナウンスも聞き取れるのではないかと思うレベル。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

市街地に近い織姫山からでは、街のネオンが煩わしく感じる。富士山を眺めるにも適した天道山からは、蚊に煩わされることもなくて意外と快適。

近くのスーパーで買った馬刺しを食べながら花火を見ていた。

 

 

 

 

 余談

足利のあちこちで見られる鏡岩。

天道山で見られる大きな鏡岩の断面。



大陸の海岸だった頃、海洋プレートの沈み込みによって押し付けられた付加体。太平洋の彼方から移動してきた生物の死骸(チャート)も、天道山の鏡伝説に関係しているのかも知れない。

 

打ち上げ花火、下から見るか 横から見るか(足利市田中町 上浅間神社)

第100回足利花火大会の夜に、田中町の上浅間神社に登って見た時の話。

 

 

浅間神社の登山口より

 

 

 

花火の打ち上げ場所は田中橋の下流、渡良瀬運動公園および河川敷。

渡瀬川に架かる橋は、上浅間神社麓の渡良瀬橋・中橋・田中橋となり、距離があるため仕掛け花火などは見えない。

 

 

 

三連アーチの中橋が良く見える。山頂から中橋を見下ろすと、標高が感じられるだろうか。

 

 

 

山頂の上の宮。

木々の隙間から花火を見る感じになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

他県から多くの人が集まる夜祭(ハレの日)、ひとけのない神社に女性を連れてゆくのは考え物。

 

2003年作の映画「13階段」にある、夜祭に連れって行った恋人が不良グループに連れ去られてしまう場面を見ても、暴漢が複数人いると対応出来ないと思う。

(夜祭の設定は、第47回江戸川乱歩賞受賞した原作の「13階段」には無い映画オリジナルの場面)

 

足利の花火大会を安全に楽しむためにも、君子危うきに近寄らずが吉。

 

 

 

 

 余談

映画「13階段」のレイプ犯役である俳優 水橋研二さんは、アニメ映画「秒速5センチメートル」主人公 遠野貴樹役の声優さん。

 映画「秒速5センチメートル

 両毛線岩舟駅に張られている「足利探訪」は、足利市「さくらめぐり」のPRポスターと思われる。

足利花火大会と織物業者の商標に見る富士山

 

明治36年創始 第106回足利花火大会が開催。

例年よりも45分短縮されて、2万発を60分で打ち上げるので、渡良瀬川上空の風向きと煙が心配。

 

平成7年の足利花火大会は、開始直後から降り出した雨により50分連続打ち上げとなった。あの年と同様に迫力のある大会になりそう。

 

 

 

 機の町・織物の町

 

明治26年(1893)開催の「シカゴ万博」では、木村浅七の木村織物工業が出品した絹織物が銅メダルを受賞。

足利花火大会の創始より10年前の話。

足利市助戸公民館のある一帯が旧木村織物工業)

 

 

かつての足利花火大会は、織物業者が取引相手を接待するイベント。商談成功となれば翌年の奉納花火にも還元されそう。

 

 

 

 

 富士山のイラストで日本一をアピール?

 

足利織物同業組合の「明治38年 組合員商標集」より

富士山を取り入れている商標を抜粋。

(足利織物同業組合は、昭和16年に解散)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たかが商標に採用した図案だとしても、商売繁盛を願って浅間神社に詣でるくらいはしていたかも知れない。

 

 

 

 

 

 余談

 

 

昭和49年 足利花火音頭できる。うちわを80円で発売。

 

 

(花輪違紋。尊氏≠騎馬武者像)

 

 

 

 

 

 

『第100回 足利花火大会』 14ページ300円の記念パンフ。市内小学生が参加する「足利の花火ポスターコンクール」で選ばれた絵と、歴代の大会PRポスターを掲載。

パンフ内の歴史年表のみ、ネットで公開されている。

http://www.ashikaga.info/hanabi/hanabi100rekishi.pdf

 

 

 

 

『渡良瀬通信 2014年6月号』 191円+税

足利花火歴史年表の他、日中に打ち上げて色のついた煙を楽しんでいた頃の花火事情が知れるインタビュー記事が面白い。

足利市小俣町冨士嶽神社の奥宮(群馬県桐生市菱町一丁目米沢浅間神社)  

 

明治33年(1900)小俣村の寶山傳行講社が、足利郡菱村米沢の雷電山に奥宮を建てる。40数年前は足利郡米沢村の山であった。

 

下野国足利郡米沢村は、安政年間(1854‐1860)に村を二分して、小友村と小俣村に併合し消滅。小友村は明治8年に黒川村、明治22年に菱村となり、昭和34年に群馬県桐生市菱町となる。越県併合するまでは桐生川左岸の浅間山も栃木県足利郡。

 

 

水辺の里宮と遥拝する奥宮。小俣村の有力者が集う講社ならではのスケール。

ご当地富士山として、明治33年からの3年間で山内が整備されていった。

 

 

冨士嶽神社から北に1.2Km。大先達傳行襲名の記念行事として奥宮を建て、その後に南方に神社を再建したものか。

奥宮には遷座、冨士嶽神社に遷宮の記録あり。

 

 ご当地富士山

参道入り口には鳥居があったというが、道幅を広げるために山裾が削られて崖になっている。

 

庚申塔や大黒天石碑などが集められている南に、一対の幟立てが倒れている。かつての参道入り口。

 

 

昭和45年発行の『菱の郷土誌』には、年に一度の祭りが行われているらしいとの記載あり。

 

信仰が廃れ、参道も藪に飲まれてわからない状態。

等高線のように、けもの道と交差するが、鹿が走り回っているので即通過。けもの道は歩きやすそうに見えるが誘わされずに直登。

 

 

 

 

 

小俣町冨士嶽神社の境内には、冨士守稲荷神社の石祠があるが、こちらの表記は「富士森稲荷大神

 

京都の伏見稲荷が「藤森稲荷」と呼ばれていたのを連想する。

 

山梨県北口本宮冨士浅間神社では、冨士守稲荷社。

 

 

富士山吉田口登山道の馬返しにある木造の小祠は、富士守稲荷大明神

 

 

 

 

山の中腹から岩場が多くなり、ちょっと富士山っぽい。

 

 

ここにきて「高尾山飯縄善神」の石碑。

傳行講社でも高尾山は人気の山らしい。

 

 

大先達寶山傳行講社中 明治36年の「仙元宮」石祠には、台石正面に「北口講」とある。

ご神体は富士山の溶岩である、頂上神石。

 

 

 

 

大きな岩影に「亀磐龍神」の石碑。

富士山八合目にある亀岩は、亀岩蓬莱八大龍神・蓬莱山亀岩八大竜王などと呼ばれる水神。

 

チャートは鏡面にも見えるほど切立つ硬い岩。

 

 

 

 

 

食行身禄霊神」の石碑 明治35年(1902)には、

大先達 寶山傳行とあり、寶山藤行 寶山羽行の名前が続く。

群馬県太田市成塚浅間神社の石碑(明治24年)にあった寶山明行が傳行を襲名し、行名を賜った羽行が加わっている。

 

小俣町冨士嶽神社の現在の社殿が建立されたのが昭和10年(1935)なので、羽行が富士登山三十三度大願成就を達成した記念行事として再建されたのかも知れない。

 

 

 

 

なんとなく亀の頭に見える大きな岩。

頭の下に容器を置けば石清水が溜まりそう。

 

 

 雷電山の南にあるピークの冨士山石祠

小俣町冨士嶽神社の奥宮ではあるが、『菱の郷土誌』にあるように「米沢浅間神社」の名称でいいと思う。

 

 

額の文字には金箔でも使っていたのか、色が残る。

 

 

二代目寶山傳行の没年が明治39年

三代目寶山傳行が活動していたころは、ご当地富士山として登られていたのだろうが、明治36年以降は富士講碑や石宮などは建てられなかったようだ。

 

一つの講社が整備したご当地富士山として充実していた分、参道を登る者がいない現状はとても残念な富士山。

 

足利市小俣町の冨士嶽神社 登山三十三度碑

 

 

 

足利市小俣町の冨士嶽神社にある明治34年(1901)登山三十三度碑は、33回の富士登山をへて大先達となった二代目寶山傳行の記念碑。

 

主な碑文は表面に

大先達寶山傳行 登山三十三度碑 東毛山下允升拝書

 

(裏面)

富士北口吉田 中教正佐藤嗣根

 

寶山傳行風崇信富士大神万延元年々甫十五従大先師光山林行貴山城行登山遂遷霊於上州新田郡成塚尓後登礼不懈明治五年開講社山田郡毛里田村七年初賜行名於北口本院八年遷霊於村之鎮守社内講中之力也十年与教山實行師結兄弟之義同総理講社教務是歳開講社當所十二年祀尊師於旧里十六年補教導職當村講中有大橋氏以醸酒為業篤仰神徳毎歳登山不懈拝受岳頂金銀明水以為醸造之源種自是醸法漸食家業年榮氏深感神恩十九年載頂上神石帰奉祀之於家又有周藤氏傳行所寓也二十三年両氏合議協講中之力建社遷祭神霊二十五年結永續社三十年納永續金三十圓三十三年献金ト地於菱村雷電遷座東岳大神為奥宮三十四年建立登山三十三度之碑亦皆依講社之力也于時年六十一所願開満傳行姓羽鳥称茂十郎父曰茂平治上州新田郡成塚産

明治三十四年十一月十日建立

 

 

寶山傳行に続く五文字目が読めない。これが敬称であれば足利市田中町の女浅間神社にある「金山提箸翁碑」などに見られる翁や叟。

富士講碑で見る敬称の「真」などになりそうであるが、ぱっと見は「風」に見える。

 

初代寶山傳行の戒名が「富岳慶風」であり、足利市月谷町青沼浅間神社に建てられていた「扶桑教大講義小澤三郎次之風之碑」などから、「風」が敬称として使われても不思議ではないが不明。

 

碑文にある「富士北口吉田 中教正佐藤嗣根」は御師毘沙門屋の当主。

 

 

 

上州新田郡成塚産の寶山傳行について

 

 

群馬県太田市の成塚稲荷神社境内にある明治10年(1877)元祖食行身禄尊師碑には、当所(成塚村住)寶山傳行とある。

 

 

 

 

大先師光山林行

 

 

群馬県太田市の金山浅間神社境内にある明治20年(1887)光山林行の登山六十六度大願成就碑に寶山傳行の名前あり。

 

 

 

大先達寶山傳行

 

 

太田市成塚浅間神社にある明治24年(1891)北山孝行の登山三十三度大願成就碑では、大先達宝山傳行とあり、

宝山明行 宝山藤行の名前が続く。

(写真奥側石碑の裏面)

 

 

群馬県にある三か所の富士講碑で見られる初代寶山傳行が足利の小俣村へ。

 

三代続いた大先達寶山傳行の墓が小俣町にあり。初代の戒名が「富岳慶風」であり、二代目は「寶山傳行」がそのまま戒名になっている。

 

初代の戒名からは、鬼の国から来る悪い風を吹き返すという富士の神風(八戻の風)や富岳神風を連想する。

 

 

 

兄弟之義を結んだ教山實行師

 

太田市の金山浅間神社境内にある一合目の石碑は教山實行が建てたもの。

光山林行の講社は太田金山をご当地富士山としている。

 

 

 足利へ移住した寶山傳行は、二代目になって足利郡菱村に講社専用のご当地富士山を得た。現在の菱町は群馬県桐生市編入されているが、当時は足利最高峰の富士山。

大岩毘沙門天の毘沙門天像 修復のため京都へ

 

 

 デジタル勧進クラウドファンディング)で全国より2538万8259円の修復資金が寄せられ、毘沙門天像が京都へと移される。

 

修復された毘沙門天像の出開帳は数百年先か?

 

 

 足利のとあるお寺で、修復作業で色彩まで復元された仏像を見て残念に思ったことがあり、古ぼけた仏像にありがたみを感じる。

寶山傳行講社の冨士嶽神社にみる大橋平蔵

足利郡小俣村の酒造業 大橋平蔵氏の店舗に掲げられていた木製看板がインターネットのオークションに出品されていた。

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天正2年(1574)に、近江国の鋳物師が下総国 市川に移住して醤油醸造を始める。鋳物師釜屋の田中喜兵衛が作る醤油蔵の屋号も釜屋。

釜屋が特約販売店である足利郡小俣の大橋平蔵のために作った木製看板。

両毛線小俣駅の開業は明治22年。舟運で運ばれていたか。

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大橋平蔵は看板が贈られる規模の店舗だったのだろう。

醤油の品質最上を表す「上」の字を商標に取り入れる「ヒゲタ醤油」や「ヤマサ醤油」とは違い、釜屋の商標は上の文字をデフォルメしたようなロゴになっている。

 

富士山信仰に篤かったという大橋平蔵だが、家業のために毎年富士登山をして金銀明水を入手する必要があったので、富士講の富士詣を支援するのは必定。

冨士嶽神社の富士講碑などに名前が残っている。

 

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小俣町 冨士嶽神社の幟立て

明治44年の幟立てには「平造」とあるので、平蔵氏とは違うようだ。

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神社境内の大きな富士登山三十三度碑(明治三十四年)

 

 

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冨士嶽神社の奥宮(明治33年に遷宮した富士山石祠)

 

このほかにも奥宮の近くにある仙元宮石祠や奉納額などに平蔵氏の名前を見ることが出来る。

 

酒造人であり醤油の販売店でもあった大橋平蔵氏は、村民の食卓を支えてがっちり。