富士山山頂の金明水・銀明水で作ったお酒の話
北口本宮冨士浅間神社の御祭神である、木花開耶姫命と大山祇命は酒造の神様でもあるという。
父神を酒解神、その娘の木花開耶姫を酒解子神と同じであるとするもので、京都の梅宮大社では、酒解神・酒解子神・夫の瓊瓊杵尊・息子の彦火火出見尊の四柱を御祭神としている。
天皇家の祖先がお酒の神様として祀られているのは、いろいろな神話がベースになっているのだろうが、山の神・水の神・稲作の神、そして山幸彦が集まればお酒が作れそうな気がする。
「竹取物語」よりも古い「日本書紀 」では、木花開耶姫の火中出産に続けて、へその緒を切る話、収穫した稲で天甜酒と飯を作って神様に供える話が出てくる。
「一書曰 初火燄明時生兒火明命 次火炎盛時生兒火進命又曰火酢芹命 次避火炎時生兒火折彦火火出見尊凡此三子火不能害及母亦無所少損 時以竹刀截其兒臍其所棄竹刀終成竹林故號彼地曰竹屋 時神吾田鹿葦津姫以卜定田號曰狹名田以其田稻釀天甜酒嘗之又用淳浪田稻爲飯嘗之」
「神吾田鹿葦津姫(木花開耶姫の別名)は、火中で問題なく出産した。へその緒を切るのに使った竹刀(臍帯血が付いている)を捨てた所は竹林になった。(天孫降臨によってもたらされた)稲から酒と飯を作った」
神様と刀や血が関わる話や、神社にとって重要な稲・水田・酒の話もあるので、数多くの二次創作や神社縁起が作れそう。
北口本宮冨士浅間神社の拝殿には、東京神田の酒造人が奉納した額がある。
額から浮き出た一対の御神酒徳利がとても目立つ。
神社手水舎の霊水や、環境省の選定する名水に選ばれている忍野八海も富士山の湧水。
飲料水が有名な富士山だが、拝殿前に積まれる奉献酒樽は思いのほか少ない。積み上げる酒樽があるだけですごいのだが。
富士山の山頂には、汲んでも尽きない泉といわれた金明水と銀明水があったが、現在では枯れてしまった。
富士山頂の泉から霊水を持ち帰っていた酒造家に、足利郡小俣村の大橋平蔵がいた。
明治初期にはまだ酒ビンは流通していないので、竹筒などの木製水筒か大徳利に入れて持ち帰ったのだろう。
足利市小俣町の冨士嶽神社にある(二代目)寶山傳行の登山三十三度碑に大橋平蔵氏について以下の記述がある。
「(明治)十六年補教導職当村講中有大橋氏以醸酒為業篤仰神徳毎歳登山不懈拝受岳頂金銀明水以為醸造之源種自是醸法漸食家業年榮氏深感神恩」
酒の神様を祀る神社から霊水を持ち帰り、醸造するときの水に混ぜるというのは、京都の松尾大社の境内に引き込まれている湧水「亀の井」が有名。こちらの御祭神の大山咋神は、山の神様。
山の神は田の神(豊穣の神)になるという話が各地にあるので、良い山・水・作物=良いお酒を連想する。
大橋平蔵も富士講の世話人として富士山に登拝し、山頂の湧水「金銀明水」を醸造酒の源としていた。25mプールにコップ一杯に満たないくらいの霊水なんて話になるのかも知れない。
火口の対面側にある銀明水の泉から水をもらうには、お鉢回りをしなければならず、毎年欠かさずに行うのは大変だったことだろう。
そんな小俣の酒造業者も廃業して、酒蔵も現存しない。
神社のありようも時代と共に変化してゆく。
木花開耶姫とお酒に関係する神社で、面白いと感じた二社をご紹介。
山梨県笛吹市の「甲斐國一宮 浅間神社」では、地元のワイナリーなどから奉納されたワインを詰めた御守り「葡萄酒守」が授与される。県外からの参拝客には御神酒も日本酒ではなくワインがふるまわれるという。
鹿児島県南さつま市の「竹屋神社」は、2018年9月9日に焼酎神を奉斎する式典を執り行い「焼酎神社 竹屋神社」と称する。
「鹿児島県の竹屋」からは「日本書紀」の神話を連想する。
この神社では木花開耶姫の火中出産を蒸留とみなし、生まれてきた三柱を、焼酎の(初留・中留・後留)神とする。
東宮に火須勢理命(火進命)西宮に火照命(火明命)をお祀りしている。神話の解釈が本格焼酎の産地ならでは。
極端にいえば生命にとって重要なのは水であり、その源は山だよね。海だよねっていうと大山祇命が酒解神で納得。
富士山山頂で湧く泉は琵琶湖の水だともいわれる。琵琶湖の水質改善に期待したい。
北口本宮冨士浅間神社で見る足利の富士講 その2
北口本冨士浅間神社の参道は、空間デザインにより空気感まで違って感じる。
同じような石灯篭が並んでいるが、村上光清の藤紋などを見比べながら進むと石工の技量や個性が見られて面白い。
三国第一山の大鳥居をくぐり進んだ先にある拝殿には、歴史を感じる額が掲げられている。
2022年2月21日に創刊150周年を迎えた毎日新聞とは別会社の、山梨毎日新聞社(創刊明治41年)が奉納。この当時は「富士嶽神社」
右は「栃木県小俣町 三代目 寶山傳行講社中」
左は「栃木県足利郡小俣村 酒造業 大橋平蔵」とある。
下野国足利郡小俣村は古くからあるが、栃木県足利郡小俣村は明治22年からの村名。栃木県小俣町は大正12年からの町名。
はなれた場所だが、数ある玉垣の中には佐藤彰(御師毘沙門屋)の名も見られる。
写真の右側から、第一神木「冨士太郎杉」(拝殿・幣殿・本殿・恵比壽社)、幣殿の脇には第二神木「冨士次郎杉」
寶山傳行の小柱背後に見えるのが神木「冨士次郎杉」、直線距離では本殿に近い好立地。
幣殿・本殿からみると写真の左側、社殿の外に足利小俣の玉垣小柱あり。
富士山の方面に、1561年(永禄4)武田信玄が川中島の戦いにて戦勝を祈願して建てた浅間社旧本殿の「東宮本殿」
反対を向いた先には、1745年(延享2)建立の手水舎。手水は富士八海の一つ「泉瑞」より引かれる富士の霊水。
ミソギをする内八海の一つであった泉は枯れてしまって現存しないが、その地下水が引き込まれているという。
北口本宮冨士浅間神社で見る足利の富士講 その1
棋士の藤井聡太五冠が、富士山の何合目まで来ているかと問われて「森林限界の手前」と回答。合目で例えないところがお洒落。
八峰ある富士山頂上で八冠という意味も含めた質問か。
温暖化の影響で森林限界は少しづつ上昇しているという。富士山では五合目付近なので、その手前なら吉田口でいうと冨士守稲荷社(中宮)辺りか。これより上は神仏の聖域とされていた。
日差しも強く、強風にさらされるようになるが、藤井五冠の活躍に期待したい。
古い石灯篭が並んだ参道。
鳥居をくぐって最初の段差があるところの左右に足利大月村の村上光清同行が、元文3年(1738)に奉納した一対の御神燈があり、灯篭の手配を御師の猿屋又右衛門が行っている。猿屋の屋号は吉田御師の申屋を連想する。
284年前の石灯篭に刻まれた文字は薄くなり、目視では確認できるが撮影した写真からは読み取れないので、文字を撮影するために時間をずらして再訪。
八代将軍吉宗の時代から風雨にさらされていれば、文字が薄くなっても仕方ない。
話は変わるが、今月21日で足利の山火事から一年になる。
想像以上に山火事は燃え広がり、昨年の富士山の日に急遽「大岩毘沙門天」の文化財避難が行われた。緊急避難であるため、傷んでしまった文化財もあり、今月から修理費用のためのデジタル勧進が始まっている。毘沙門天像修復にご協力していただける方が増えることを祈ります。
御師の家「毘沙門屋」と足利の富士講 その2
毘沙門屋の寄付連名額に見る富士講の有力者
明治10年に寶山傳行が開講した富士講が毘沙門屋に寄付をした時の奉納額。先達2名が行名を使っていないことから傳行を含めて行名をもつ藤行・羽行・三行・久行・真行などから代替わりした頃のもの。
世話人の大橋平蔵は先達の5倍、大川繁右衛門は3倍の寄付金額であることがわかる。
世話人の大橋氏が財政面で講社を支える講元役であった。
大川繁右衛門は弘化4年(1847)に小俣村の名主、安政2年(1855)に徒士格として足利藩士になり、大川家の当主は繁右衛門を襲名するようになる。奉納額に記載されている大川氏は三・四代目の繁右衛門だろう。
今回は、江戸末期の足利郡小俣村にて一代で巨万の富を築いたという二代繁右衛門と御嶽講についての話を書く。
足利には富士講・御嶽講・大山講・男体講・榛名講など多くの山岳信仰があった。御嶽講だろうと富士山に登るし、富士講だからと御嶽に登らないわけではない。
二代繁右衛門は御嶽講の真精講で先達をしていたという。村の名主が先達として講員を引率・先導出来たのかわからないが、講元のように財政面から講を支えていたのは間違いない。
下野国足利郡小友村の姥穴山に御嶽を勧請。ここまでなら特別なことではないが、下野国第一の霊山である日光山に御嶽開闢を発願、十二年間に渡り各方面に働きかけて日光三山の中央にある大真名子山に御嶽山を勧請した奇特な人。
日光山の寺社仏閣や日光修験の神体山に前例のない御嶽信仰を導入するのは、サンリオキャラクターの着ぐるみを着て某国に入国するよりも難易度が高いのでは。
北面が開けていれば、足利市の山からでも遠望できる日光連山(男・子・女)
真精講は大真名子山への拝礼が許されると、1864年(元治1)より御嶽山座王大権現・八海山提頭羅神王・三笠山刀利天宮の青銅像を安置していく。鉄はしご・鎖場がある標高2375mの山を登るだけでも大変なのに、等身大の座王大権現像を山頂まで上げるのにどれほど苦労したのだろうかと想像する。
三体の銅像を作った仏師 松本法橋良山は成田山新勝寺釈迦堂の堂羽目「五百羅漢」を彫った人。鋳物師は粉川市正藤原国正。山頂の座王大権現には、文久3年(1863)2月吉日 当国足利郡小俣村 発願大川繁右衛門 願主木村半五郎の銘あり。木村半五郎は文久2年(1862)桐生絹買仲間に名前がある人物。
両名は小俣村の元機と買次問屋であり織物業者であるが、織物だけでなく農業(地主)や金融業などの収入源も保持していたので、糸偏景気が多少揺らいでも問題なかったと思われる。
日光山へ御嶽を開闢出来たことに関係するかわからないが、大川家に伝わる三つ葉葵や水野沢瀉の家紋入り什器、栃木県の指定文化財になっている馬具や打掛などは、二代繁右衛門の財力を感じさせる。
老中水野忠精の室の生家が芳賀家であることから「芳賀家を通じて水野家と大川家は姻戚関係だった」という家伝があるそうだ。
越県併合により現在は群馬県桐生市菱町になった御嶽山(姥穴山)にある御嶽山石祠は大正13年に再建したもの。台座には「講元小俣 大川繁右衛門」の銘があるので、大正時代も御嶽 真精講の講元を務めながら富士講でも有力者であったことがわかる。繁右衛門は中禅寺の湖水で長谷川角行と角行の跡を継ぎ二世となる黒野軍平が初めて出会う話なども知っていたことだろう。
他の行者はともかく長谷川角行の跡を継ぎ二世となった黒野氏は男体山の本地仏が千手千眼であると知っていただろうし、男体山は中禅寺湖の泉源であると感じたかも知れない。
地元の御嶽山
桐生市菱町の御嶽山は参道入り口がゴルフ場となり麓から登れなくなってしまい、御嶽信仰も途絶えている。
山頂の御嶽山石祠には文久2年(1862)4月鎮座とあるので、日光の大真名子山と同時期に勧請したもの。大真名子山よりも1~2年早く勧請されているが、有名仏師に依頼して青銅像を制作する期間を考えれば差はない。
菱町御嶽山の参道に残る石造物
五丁 石
四丁 石
一心霊神碑(一心行者)
八海山提頭羅神王像(破損)
三笠山刀利天宮像(破損)
三笠山大神碑(破損)
立山大神碑
火産神神社碑
大江女護神碑(御嶽山八合目)
武尊大権現碑(普寛行者)
御嶽山石祠
*御嶽山石祠に、文久2年鎮座・大正13年遷宮とあるが、参道の石造物には明治5年のものあり。
小友村は明治8年に黒川村、明治22年に菱村となり昭和34年に群馬県に編入して桐生市菱町一丁目になる。
2014年木曽御嶽山の噴火では多くの犠牲者を出した。噴煙が上がる様子を撮影していた人に、噴石による犠牲が複数出たという。直接当たったのではなく高々度まで吹き上げられた噴石が落下してきて被災しているので、身を隠せる場所がないと逃げ切れるものではないのだろうが避難優先、撮影している暇はないと教えて頂いた。
御師の家「毘沙門屋」と足利の富士講 その1
コロナで外出を控えていたらもう大晦日。昨夜テレビを見ていたら開戦から今年で80年とあった。戦後ではなく開戦から何年というのもあるのだなと当たり前のことを思う。
今年は明治政府によって御師職が廃されてから150年。足利市の市政100周年だった。
来年の干支である寅=虎は毘沙門天の使い。
寅年を迎えるにあたって、むかし毘沙門屋で見た足利の富士講について書いてみる。
御師の家「毘沙門屋」とは
山梨県富士吉田市の上吉田にある毘沙門屋は、昭和25年頃に廃業したという御師の家。
毘沙門屋は「冨士北口講社」に参加した御師の家。後に神道扶桑教になる「冨士一山講社」に参加する御師の家との関係は気になるが今更のはなし。
冨士北口講社については、明治9年に冨士嶽神社祠官の秦隆栄が書いた『冨士北口講社誓約並規約書』がある。ここでいう冨士嶽神社とは現在の「北口本宮冨士浅間神社」であり今の名称になったのは昭和21年。ちなみに浅間神社の総本山である静岡の「富士山本宮浅間大社」は昭和57年からの名称。明治維新などにより神社の名前も変化している。
冨士一山講社を立ち上げた宍野半は静岡の本宮浅間神社の宮司であり、北口の冨士嶽神社社司も兼務した人物だが、宍野半は明治政府側の人間だとして反発した人もいたのだろう。
冨士北口講社が冨士北口教会となり神道冨士教会へと改称、御師の家「大外川」の外川重樹が冨士教会長となる。
毘沙門屋廃業時の当主 佐藤彰も何代目かの冨士教会長であった。冨士教会の衰退や神道大教に参加する経緯を知る人物。毘沙門屋で見る足利の富士講も冨士北口講社~冨士教会に参加した上野国新田郡下浜田村の大先達光山林行の門人たちである。
毘沙門屋にある板マネキや、寄付連名の奉納額には足利郡小俣村・松田村の講社が見られる。
保存する金剛杖には「栃木県足利郡三和村大字松田村 大正4年8月10日登山 萩原○○○○」の銘あり。普通の金剛杖も106年前の富士登山で実際に使われたと想えば感慨深い。徒歩で帰らなくなると杖は残してゆくのが一番手軽。
大先達光山林行門人の講社に足利郡松田村の萩原保三がいる、杖の持ち主もこの萩原氏の関係者だろうか。明治22年から松田村は三和村の大字になるが、三和村五代目の村長が萩原姓。
冨士北口教会に参加した足利郡の村としては、小俣村・黒川村・葉鹿村・大前村・五十部村・大岩村・足利町・松田村などがある。大岩村といえば大岩毘沙門天、毘沙門屋の屋号に反応しそう。
上記の村は足利町を除いて江戸時代の文政改革で結成された「改革組合村」で小俣村組合寄場に属した村々であり養蚕や織物業が盛んだった地域。
富士講には関係ない古い話をすれば、足利町・小俣村・松田村・粟ノ谷村(後の三和村粟谷)は、元禄12~13年に甲斐国谷村藩領がある村。元禄12年は谷村藩主秋元喬知が将軍徳川綱吉の老中になった年で、13年は谷村藩が下野国足利郡・都賀郡などに1万石加増された年。喬知は谷村藩にて織物業を奨励、河口湖から新倉村まで約3.8km日本最長の手掘りトンネル「新倉掘抜」を開削した人。
徳川綱吉は上野国館林城主の頃、現在の佐野市喜多山町にある浅間神社を修繕したとされる。食行身禄の著書「一字不説の巻」に生類憐みの令で人の命を取り資金を費やした咎人として徳川綱吉が出てくる。
館林藩領が佐野にも足利にもあったなど、江戸時代は一つの村にも幕府領・旗本領・寺領などが入り乱れているので村として行動するときに問題があった。「改革組合村」では領主の違いに関係なく組合村として防犯などに対応した。
小俣村を寄場村として編成された組合村と、光山林行の門人がいる村。養蚕・織物業が盛んな村はリンクしている。富士山の神様は養蚕の神としても信仰されていた。
織物産業を統括した小俣村の大川家住宅は大門や式台を持つ元機屋敷であり、国の登録有形文化財に指定されている。毘沙門屋にある奉納額には小俣村の講社に参加する大川繫右衛門の名前がある。
神道冨士教会の講社は新田郡の光山林行が元講になるので足利西部に片寄っている。
松田村から馬打峠ごしの月谷村は扶桑教エリア。藤坂峠ごしの隣村である名草村には金山清行の講社がある。かつて足利には扶桑教足利分教会があり、田中町女浅間神社の大きな石碑で顕彰されている金山清行(提箸清七)が扶桑教で活動していた。
金山清行は金山清とする。富士山の御中道で発見した近道の名称も「金山清新道」としていた。
謎の村「三品村」のはなし
『上吉田の民俗』の348・345ページに毘沙門屋の講社として赤卍講(群馬県新田郡生品村・宝泉村、大間々村、栃木県足利郡三品村)と記載されている。
足利郡に三品村は無く、毘沙門屋にて足利郡三和村を目にしているので、新田郡生品村と混同した誤植だと気に留めなかった。
富士吉田市などが富士山の世界遺産登録をめざして活動。2012~13年御師の町を観光資源とするためのプロジェクトに協力する御師の家の入口に、家の歴史を紹介するパネルが設置される。毘沙門屋にも歴史パネルが建てられたが、そこでは栃木県足利郡三品村と記載されている。
毘沙門屋の歴史パネルは試作品が作られているが。試作品での村名は中抜き4文字で「三_ 品村」となっていた。ふたたび出会った謎の村が本当にあるのか気になり足利郡や梁田郡、現在桐生市になっている足利郡の村を調査した。
北里村や堀島村などの併合・分村パターンと、小谷村や箭竹邑など旧字や小字が村として表記されるパターンを調べてみたが三品村は見つからなかった。
「足利郡三品村?」と疑問に思う人は皆無だろう。足利の三和村はなくなり今では三和地区として名が残っている。
歴史パネルが間違えているのを指摘したいわけではなく、謎の村を調べている中で松田村に仙元宮の石祠を見つけたり、月谷村青沼の浅間神社を見つけることが出来た。疑問に思ったら一応調べてみるものだなと思った出来事。
登山をするだけではなく富士吉田の町を散策するのも面白いと思う。
下記の写真は本町通りから一つ東側の裏通りで見た風景
お気に入りの石、梵網経の汝是畜生ではないところがポイント。
南総里見八犬伝を連想する。
山火事後の両崖山に登る 足利市本城一丁目の両崖山ハイキングコースより
両崖山へのハイキングといえば、西宮町の足利織姫神社から登り始めて両崖山の足利城跡まで行って折り返してくる人が多いだろうか。
『足利市ハイキングマップ』では「歴史のまちを望むみち」と「天狗山ハイキングコース」の2つをおすすめコースとしている。
このほかの下山道や、本城一丁目のハイキングコースには登山者用の駐車場が整備されていない。
関東ふれあいの道「歴史のまちを望むみち」は、月谷町の行道山浄因寺を出発して、大岩毘沙門天~両崖山~織姫神社~鑁阿寺~足利学校~足利駅に至る9km。北から両崖山に登る設定のコース。
大岩町の旧サンフィールド駐車場などを利用して、大岩毘沙門天からスタートすれば、行道山~毘沙門天の2kmをショートカットできる。
「天狗山ハイキングコース」は一番人気のあるコース。
織姫神社~鏡岩~両崖山~天狗山~富士見岩見晴台~子安観音(通七丁目)の約5km。
さいこうふれあいセンターなどに駐車して、子安観音堂から登って行く人もよく見かける。
子安観音の水盤は、嘉永6年(1853)に奉納されたもの。
支える足は4つの溶岩。奥に足利の浅間山がみえる。
「本城一丁目のハイキングコース」は、雷電神社から雷電山に登るルートと両崖山を東から登るルートがあり、今回は後者の両崖山ハイキングコースを登った。
両崖山へ登り始める前に、小谷弁財天大神へ参拝。
寄進者名が書かれた板に、足利郡小谷村とある。
弁財天の脇から沢沿いを2分ほど登ると、西宮林野火災の跡がみられる。
根元が大きく焼けた木は、今後も倒木の危険がありそう。
エサを探しに来るのか、フンが落ちている。
例)火災以前に、西宮町の天狗谷「峠の細道」で遭遇した三頭の群れ。
弁財天からハイキングコースまで戻り「利根川水系 両崖二号沢」に沿って登って行く。
ハイキングコースにある神社の話し
ハイキングコース入口から1分ほど登った左手に、かつて武家屋敷が建っていたという場所がある。
今は杉林になっていて、屋敷が建っていた感じはしない。
神社跡地のようなところに、「長尾様」と呼ばれた長尾神社や天龍神の石祠があり、足利神習教丸信支教会の大きな記念碑はハイキングコースからも見える。
これらは両崖沢の対面にあるので、気付かない人も多いだろう。
室町時代、両崖山にあった城を改修して小屋城を建てたのが長尾景長。(古屋城・小谷城ともいう)
武家屋敷が建ち長尾神社を祀る小谷村には、山城のふもとに作られる城兵の集落(根小屋・根古屋)があったのだろう。
長尾景長は城の鎮守として、西宮長林寺の池のほとりに弁財天(長尾弁財天)を祀ったという。
また、西宮町にある本経寺には子安弁財天の石祠があり、台石に「長尾公 鬼門除」と刻まれている。
天狗谷のふもとにある本経寺の子安弁財天が「裏鬼門除け」として祀られたのであれば、城の北東側にある長尾神社や小谷弁財天は「鬼門除け」を担っていたのだろう。
両崖山の足利城には、小屋城の他に栗崎城ともいわれる。五箇村字栗崎にあった長尾弁財天からみれば栗崎城か。
長尾弁財天は廃仏毀釈によって、西宮長林寺から通6丁目に遷座し厳島神社に改称されている。
城主の長尾景長は絵の才能もあり、狩野派と呼ばれる画家集団をまとめた狩野元信とは師弟関係だという。
狩野元信印「富士参詣曼荼羅」(富士山本宮浅間大社蔵)は、元信の工房で描かれた大作。
林野火災後の様子
本城1丁目ハイキングコースの入口から3分ほど登ると、火災の跡が見られるようになる。消火活動によりここで火が食い止められ、住宅に被害を出さずに済んだことは幸い。
木の根元が焦げている。
ポリエチレン製の擬木丸太が溶けていた。
分岐点にあるプラスチック製の標識が溶けている。
地中で木の根が焼け、トンネル状の空洞になっているところも。
本城一丁目のハイキングコースを歩いてみて、危険だと感じたのは溶けたステップの1か所のみだった。
関東ふれあいの道に合流してすぐ近くにあった「丸太見晴台」は焼失。
焼け落ちた見晴台に替わる、テーブルやチェアを寄贈することを目的としたクラウドファンディングの広告が貼られている。
(両崖山復興プロジェクト 募集期間は4月29日まで)
火災前に、丸太見晴台から見た富士山(右奥)と足利富士山&足利の浅間山(左上)。
ここから眺めると渡良瀬川の対岸にある、足利富士山まで尾根続きのように見える。
分岐点にある石柱は、明治42年に大月村の人が奉納したもの。両崖山と同じく、大月村も御嶽信仰が盛んであった。
桜の木がある東屋は大丈夫。桜も咲いた。
東屋裏手の焼け跡。
足利城跡の東屋も、尾曳神社も無事。
どちらも裏手のすぐ近くまで焼けた跡がある。
「御岳神社(みたけじんじゃ 両崖山中)全焼」という足利市の発表に驚いたが、木曽御嶽神社(おんたけ)は異常なし。
向かって右手に建っていた天満宮は焼失。
左手に建っていた月讀命三日月神社も焼け、黒く焦げた額がご神体に立て掛けられている。
風が強く当たる場所なので、火力が増したのだろう。
焼け落ちた天満宮の石垣
三日月神社の扁額、ご神体も焦げている。
タブノキの様子も確認して、紫つつじの名所である紫山へ向かう。
栃木百名山 第97座 両崖山の標識。枯れ葉が積もっていた場所が焼けているよう。
天狗山ハイキングコースの手作り案内板も、焼け焦げていた。
一部が炭化したベンチ。
足利市は出火原因をタバコに起因するものと推定。森林被害額3千2百万円。
消火活動された方々の苦労を思うと、登山者のタバコは本当に恐ろしい。
歩いて来たルートを折り返して本城一丁目への分岐へ戻る。
分岐を東に下って行くと大月方面に、天道山や大坊山が見える。
余談1
「歴史のまちを望むみち」のスタート地点である月谷町の行道山浄因寺は、葛飾北斎の錦絵「諸国名橋奇覧 足利行道山くものかけはし」に描かれた場所。
靴メーカーのキーンは、この錦絵をモチーフにした靴を今年3月より販売している。
防水のハイキングシューズは、インソールに錦絵の一部と落款がプリントされていて、江戸時代のおしゃれ感覚。
サンダルは沢水に足を入れて遊ぶのにもよさそう。
関東ふれあいの道を歩くのが、楽しくなる靴だと思う。
余談2
足利インターから大岩毘沙門天への抜け道になる「林道 大岩月谷線」は、西宮林野火災のため3月16日まで通行止めになっていた。
この林道にあるコンクリートのシミが、大岩山に向かって拝む姿に感じられた。
余談3
西宮町の天狗谷「峠の細道」は、天狗山ハイキングコースの下山道。両崖山や天狗山の山頂に近いルート。
天狗山の山頂には木札「天狗札」が置かれていたが、今年の1月で配布を終了した。
木曽檜材で作られる天狗札は、8年間で累計1万2千枚を超えたという。(2012年に書かれた「天狗山の会」のパンフより)
遠くカナダの山で、この木札を吊り下げたカナダ人登山者を目撃したという報告もあったという。(同パンフ)
海外で漢字の木札だから目に留まったのだろう。
表書きの「天狗山」には平仮名と漢字があり、裏面は「福天狗」の焼き印が押されたものと、手書き文字があった。
木札を見ると登山の当時を思い出す。
長期にわたる木札の制作、本当にお疲れさまでした。
なぜ、もう入手できない天狗札の話をするのかといえば、木札の入手目的で来る登山者が出ないことを祈るから。
登ってから終了に気付いても、怒ってポイ捨てなどしないように。
足利市樺崎町馬坂の浅間神社と、陸軍飛行第244戦隊3式戦闘機「飛燕」の話
足利市樺崎町馬坂の浅間神社
国道293の越床トンネルの手前にある馬坂の浅間神社は、藪に飲まれて近寄れない状態になっている。
境内の下草が手入れされていた一昔前の写真。
ここで目を引く「富士登山三十三度修行」の大きな石碑は、神道扶桑教大講義 阿由葉忠七叟(翁)講社の少教正 松崎善吉が明治33年に建てたもの。(北郷村利保の忠七さんは、この時すでに故人)
山梨県富士河口湖町の「富士博物館」には、松崎善吉が御師宅に奉納した食行身禄像が展示されていた。身禄像の厨子には「明治23年12月15日 足利郡北郷村椛崎 少教正 松崎善吉 惣講社」の銘がある。(河口の御師宅を移築し、昭和29年に開設された富士博物館は2019年10月から現在休館中。)
石の鳥居は足利学校の門前、昌平町の人が寄進。
欄干石柱のひとつは足利市通6丁目の日本茶専門店 岩田園さん。
境内にある石碑には、安蘇郡の赤見村や田沼町(共に現佐野市)の寄進者名が見られる。馬坂や越床の地名からも、当地と安蘇は往来が盛んにあったのだろう。
社の近くに樺崎八幡宮あり。
「関東ふれあいの道(マンサクの花咲くみち)」道標。
長谷川角行の後継者、四世の月玵や五世月心が足利の大月村を訪れた際、出流観音(栃木市出流町)へ詣でる道中、樺崎で山越えしていると思われる。
坂東三十三観音第十七番札所 出流山満願寺への巡礼者も多く、かつては多くの辻に出流への道標があったという。
足利の鑁阿寺でも鎌倉時代正安元年(1299)に建てられた本堂(2013国宝指定)の外陣が、夜間は巡礼者に開放されていた。今でも内陣と外陣を仕切る戸をはめ込む溝が残り、御護摩や御祈祷で本堂に上がると外陣の様子がよくわかる。
樺崎八幡宮の東、赤坂にある文字が見えない道標。
〈←樺崎八幡宮 城山・塩坂峠・越床峠→〉この道標を見ても、往来に使われることが無くなったルートの状況がうかがえる。城山とはかつて樺崎城があった山。
山を越えた先にある佐野市寺久保町の熊野神社には、明治期に建てられた富士講先達 荒井仰行門人たちの石碑、小御嶽石尊石祠(冨士山小御嶽神社)、高尾山石祠などがある。(全く気が付かなかった青いハンガーは不明)
石の形から烏帽子岩と思われる碑には、手印を結んだ食行身禄の彫刻。門人たちの碑は左卍なのに対して、この碑は右卍。身禄のモデルは仰行か。
佐野側のふれあいの道は昨年の台風19号で洗堀されているようだ。この台風の影響は、太田市の自動車メーカーから山道まで被害は甚大。
熊野神社の南、足利と安蘇とで信仰があった鳩峯山神社の石灯篭
左に行けば鳩峯山神社 右に進めば山を越えて足利
足利市樺崎町馬坂にある石碑「陸軍中尉 永井孝男戦没之地」の話
昭和20年2月10日午後 足利郡北郷村大字樺崎馬坂の山中に陸軍飛行第244戦隊みかづき隊の永井孝男少尉が操縦する3式戦闘機「飛燕」が墜落した。
この日、群馬県太田市の「中島飛行機太田製作所」を攻撃目標(作戦番号29)としてマリアナ諸島から118機のB29爆撃機が発進。これを邀撃するため出撃した戦闘機であった。
私が聞いた話は「城山(ジョウヤマ)に米軍機が落ちた、みんなで竹槍を持って登った」というもの。実際は日本の陸軍機であり、墜落現場に小さな慰霊碑が建てられた。
「大月の山に金属片が散っていた」という話は、飛燕が山の木に当たっていったのかも知れない。
マリアナ諸島から出動した118機のうち、太田製作所爆撃84機(71%)未帰還機12機(10%)損傷機29機(25%)であった。
この日B29同士で接触事故を起こし、群馬県邑楽郡邑楽町秋妻に墜落した2機がある。陸軍第1練成飛行隊の倉井利三少尉が4式戦闘機「疾風」でB29に体当たり2機撃墜という話はここから来ているのだろう。
同年4月11日 倉井少尉を含む陸軍五人の感状上聞(軍功を天皇に報告)は、12日付の新聞にて「B29体当りの五神鷲」として英雄報道されている。倉井機が墜落した栃木県下都賀郡野木町佐川野には、現場畑の所有者が建てた倉井少尉の慰霊碑がある。
編隊を組んで飛来するB29。接触事故を起こして墜落する2機の様子は編隊僚機によって確認されている。
この日、太田製作所への爆撃を終えて帰途するB29を海軍の戦闘機が1機撃墜した。アメリカ側の資料ではこの日の未帰還機12機の内訳は撃墜5機、その他7機。戦闘機による撃墜で詳細がわかるのは海軍機による一件のみ。群馬県邑楽町にB29の残骸あれば、陸軍がこれを最大限利用するのは必定。平将門を呪殺した実績がある茨城・栃木、「必墜の攻撃精神が当たりB29が事故を起こした」ともいえる。
樺崎町馬坂に永井少尉機が落ちるのを目撃したという話を私は知らない。永井少尉と同じ244戦隊所属、とっぷう隊 梅原三郎伍長機の目撃談から、永井少尉機の墜落状況を想像する。
同日、茨城県結城郡石下(現常総市)上空にてB29に体当たりした梅原伍長の「飛燕」は、市街地への墜落を避けるように方向転換して茨城県筑西市大塚の雑木林に墜落した。永井少尉も足利市街地への墜落を避けるために、馬坂の山中へ墜落したのではないかと考える。
筑西市大塚にある慰霊碑「故陸軍伍長梅原三郎戦死之地」には「同月23日防衛総司令官稔彦王殿下より感状を賜り同年3月8日畏くも上聞に達せられる陸軍航空曹長に昇級」とあり、特別攻撃により二階級特進されたことがわかる。
永井少尉の碑に「陸軍中尉」とあるのは一階級特進後の階級を碑に刻んだものだろう。
足利市の「百頭空襲」
昭和20年2月10日午後 群馬県邑楽町にB29が墜落した現場から北に1キロ、足利市百頭町に250キロ爆弾83発と数多くの焼夷弾が投下され33名もの尊い生命が失われた。これは栃木県内の空襲では同年7月12日の宇都宮大空襲 死者628名に次ぐ被害。太田製作所を爆撃した84機のいずれかが投下していったもの。
同日、足利の百頭以外にも館林の渡瀬など周辺地域に投下された場所はいくつもあったが、百頭に投下された爆弾・焼夷弾の数は突出している。事故で墜落炎上していることを知った後続のB29搭乗員たちの中には、爆撃コース上の事故現場付近で、爆撃照準器を作動させてしまう爆撃手が出てきそうな気もする。
2月16日 足利百頭の地蔵院において空襲犠牲者33名の初七日に合同慰霊祭が行われた。当日は米軍第58任務部隊の空母艦載機によるジャンボリー作戦が行われた日でもあり、中島飛行機太田製作所及び小泉製作所を攻撃目標とする艦載機が飛来してきた。このため慰霊祭に集まっていた人も逃げ帰っているという。
4月4日 中島飛行機小泉製作所を攻撃目標(作戦番号56)としたB29の空襲があり、百頭はこの日も空襲を受けたが死傷者は出なかった。B29にとって百頭~中島飛行機製作所は目と鼻の先。2月10日の太田製作所爆撃コースと今回の爆撃コースが百頭上で交差したのだろう。物語であれば「前回と同じ爆撃照準手が」という展開もあるだろうが。
足利市田中町に墜落した米軍機と、同日足利・館林市に落ちた陸軍3式戦闘機の話
昭和20年2月16日 ジャンボリー作戦を行う米軍第58任務部隊の旗艦、空母「バンカーヒル」から出撃した艦載機TBM「アヴェンジャー(復讐者)」が、太田の独立高射砲第4大隊の砲撃を受け足利市田中町の民家に墜落し家屋を破損した。TBM搭乗員3名は2名が墜落死、1名はパラシュートで降下したが負傷していたため死亡。映画「トップガン」の劇中にあったように、この当時も脱出の際に頭部や頸部を損傷することがあったという。
私が聞いた話は「落下傘で降りてきた、竹槍をもって捕まえに行った、しまったそうだ」「米兵が履いていた靴を見せてもらった、とても大きな靴でおどろいた」というもの。
足利市田中町に墜落したTBM搭乗員の慰霊碑が、群馬県邑楽町の清岩寺にある。石碑には、ジョン・F・ケネディー元大統領の甥で『特攻 空母バンカーヒルと二人のカミカゼ』著者のマクスウェル・テイラー・ケネディーが寄せた言葉が刻まれている。
「人間の持つ残酷さを克服しこの人生を平穏なものにしよう 日本の皆さんに心からの感謝を込めて」
館林市上空「戦闘機VS戦闘機」の空中戦
ジャンボリー作戦に参加した艦載機は1000機とも。これが各地の飛行場・軍需工場を攻撃した。
2月16日午後、群馬県館林市上空でF6F「ヘルキャット」と格闘戦を行った244戦隊本部小隊の鈴木正一伍長の「飛燕」が足利市に、同じく新垣安雄少尉の「飛燕」が館林市木戸町に墜落した。
新垣少尉機は桑畑へ落ちた衝撃で、地下に5メートル以上めり込んだという。少尉が搭乗したまま埋まった飛燕は、墜落から34年後の1979年2月に遺族立ち合いのもと、陸上自衛隊によって発掘され遺骨が回収されている。これは木戸町住民からの要望によって実現したものだった。
この日、陸軍飛行第244戦隊は未帰還8機、戦死者4名の被害を出した。小林照彦戦隊長の編隊僚機である、鈴木機・新垣機がこのうちの2機、2名。
小林戦隊長は終戦後、航空自衛隊に入隊。昭和32年6月 搭乗するT-33「若鷹」が墜落して殉職されたが、市街地に落とさないよう脱出せずに操縦したという。
百頭空襲の遺族は慰霊祭までも米軍機に脅かされたこと。TBM「アヴェンジャー」だけではなく、同じ日に陸軍の「飛燕」も足利・館林市に墜落していることを記しておきたい。
このほか私が聞いた空襲の話は「飛行機が見たくて防空壕から頭を出した男の子が米軍機の機銃掃射で亡くなった」(昭和20年7月10日足利市川崎町、艦載機の機銃掃射により死者4名の話か)
「B29の焼夷弾で焼け出された人のために、一人一品以上持ってくるように学校でいわれた。石鹸と手ぬぐいを持って行った」昭和20年8月14日の足利市本城・西砂原後町で死者6名を出した空襲火災の話。
私の親戚にもこの戦争でマリアナ諸島に出兵戦死した人がいる。大人の背丈よりも大きな墓石に軍服軍刀姿の写真タイルがはめ込まれていた墓も25年ほど前、遠忌の弔い上げを機に片付けられた。
終戦時に20歳の人も今年で95歳、足利の様子を当事者から聞ける機会は少ない。