「足利学校国宝展」で見る国宝書籍 (からの林羅山)


 「足利学校国宝展」開催中 
 
足利学校が所蔵する4種の国宝唐本が、足利学校内で初公開(今月30日まで)
国宝書籍4種77冊のうち4種16冊が展示されている。
南宋時代の木版印刷本であるが、作られて800年経つ書には見えない。
 

 関東管領 上杉憲実寄進の書に「此書不許出 學校閫外 憲實(花押)」とあり。
 豊臣秀次の指示で持ち去られた書籍類を、徳川家康足利学校に還付。
  8代将軍吉宗の取り寄せ閲覧。
 戦時中の戦火を避けるための持ち出し。
 市立美術館での一部展示などを除き、門外不出であったもの。

 
豊臣秀次に書籍類が持ち去られた際も、足利学校9世庠主三要が同行した。秀次の自死後、三要は家康のブレーンとなり本田正純・天海・崇伝・林羅山らと働くことで足利学校を守った。


イメージ 3

              北条氏政寄進の「宋刊本文選(国宝)」に加筆した三要の識語あり
 
 


足利学校を訪れる人が、方丈の脇仏壇や「尊牌の間」に並んだ位牌を校長先生の位牌だと思うようで、それらが歴代徳川将軍の位牌だと気付いて「何故ここで祀られているのか」と話しあっている姿を見かける。
 
 
イメージ 1

 
 江戸時代の足利学校で、徳川将軍家の位牌が祀られた間は東照宮であった。

イメージ 2






 林羅山にとって最後となった日光社参と足利学校
 
承応21653年は徳川家光の三回忌であり、羅山は息子読耕斎・門人の人見竹洞を連れて日光へ社参をする。日光の帰路、竹洞に案内され足利学校を訪れた羅山は、上杉憲実父子が寄進した五経注疏を借り受ける。
 
今回の国宝展に展示される国宝の書籍を借りたような表現であるが、足利学校に貸し出した記録がなく門外不出の書籍である事を考えれば、借り受けたのは羅山も納得する出来栄えの写本であろう。
 
足利郡西場村は人見家の領地であり、71才の羅山も老体を休めることが出来ただろう。足利からは、羅山の領地がある現埼玉県熊谷市鴻巣市を経て江戸へと帰る。現さいたま市にも人見家の領地があった。
 
羅山がこの旅を著した『癸巳日光紀行』には、足利学校 五経注疏の記述あり。
*癸巳は承応2年 
 
羅山は足利学校から借りた本を、家蔵の五経正義と対校して『五経注疏跋』『論孟注疏跋』を書いた。
足利学校五経注疏や論孟注疏という本がある訳ではなく、儒教経書の中でも特に重要であるとされた四書五経の「易経(占い)」「書経(政治)」「詩経(詩)」「礼記(礼儀)」「春秋(歴史)」や「論語」「孟子」などを指す。
 
 
 
  これ以降は、林羅山を軸に富士山信仰の話しになるので、足利学校国宝展に 興味をお持ちの方は足利学校へ。


 国宝展とは別に1215日までの期間、企画展足利学校の典籍」が開催中。  111日からは、こちらで国宝書籍4種の複製が展示される。

 
イメージ 4

    *左は無料でもらえる図録            
 



 林羅山について
 
慶長191614)年の「方広寺鐘銘事件」は、大河ドラマ 真田丸40 幸村」の中でも触れられていたが、林羅山は銘文に呪詛があるとした。南光坊天海・本田正純・金地院崇伝らが関与した事件。
 
元和2(1616)年 羅山が著した東海道の紀行文『丙辰紀行』では、三島の項にて「伊豆の三島はむかし伊豫國より遷して大山祇神をいわいまつる。いつぞや相國の御前にて三島と富士とは親子の神なりと世久しくいひ傳へりと沙汰ありければ、さては富士の大神をば木花開耶姫と定め申さば日本記のこゝろにも協ひ申すべきなり。竹取物語とやらんにいへるかくや姫は後の代の事にてや侍らん」とある。
浅間大神について、木花開耶姫かぐや姫を取り上げている。
 
 BSTBSの歴史番組 にっぽん!歴史鑑定「♯73 日本人の心・富士山ミステリー」(2016829日放送)では、富士山の神を、かぐや姫からコノハナサクヤヒメへと変えた人物として林羅山を取り上げていた。
 
 番組内容
霊峰・富士には、歴史の闇に埋もれてしまった様々な「ミステリー」が存在する。全国にある浅間神社で、富士山の祭神とされる女神「コノハナサクヤヒメ」しかし、江戸時代までは富士山の神様は「竹取物語」で知られるかぐや姫だったという!なぜかぐや姫は祭神の地位を剥奪されたのか?答えは江戸時代にあった。他
 
 
寛永61629)年 羅山は日光社参の時に、室の八島について「池の中に八島あり、島ごとに小祠あり」と述べているので、この当時も現在の室八島と大差がないことがわかる。
イメージ 5

「日光ノ神 富士ノ神等ノ諸神ヲ 此ニ請迎ス 然レドモ其ノ始メヲ詳ニセズ」とあるので、羅山が始まりについて尋ねてもわからなかったようだ。
八島に祀られた神々を(日光の神 富士の神等の諸神)と表しているのは、情報提供者の言葉か羅山の印象か。
 
 
寛永17年(1640)三代将軍家光が日光社参の帰路に、室の八島に立ち寄る。
家光の社領寄進、酒井雅楽頭らによる社殿再建などで荒廃した神社が復旧してゆく。
 
 
正保年中 (1645~8) 羅山の『神道伝授』に、ニニギノミコトコノハナサクヤヒメ・イハ長ヒメの神話による現人神が短命な由来の記述あり。
三種神器の項では、鏡・玉・剣を儒教的三徳(智 勇)とみなした。
「また鏡は日・玉は月・剣は星にかたどる、此三光ありて天地明なるが如」と天孫降臨の神話にて天照大神ニニギノミコトに授けた三種の神器を三光に例えている。
勾玉は三日月を、剣は北斗七星(妙見・七星剣・七星文・破軍星)を連想する。この例えは下野國でウケが良かったと思われる。
 
承応21653)年『癸巳日光紀行』に、羅山が見たという武蔵鷲宮の古縁起(現埼玉県久喜市鷲宮神社)の記述あり。富士山神・室八州などが出てくる。
 
 
足利の先達 正田正行を開祖とする富士講社があった、「癸生のせんげんさま」(栃木市大塚町癸生浅間神社)の社伝では、正田正行がケブ村に訪れた年を 承応2年であるとするが、これでは足利の正田正行とは年代が合わない。
なぜ承応2年としているのかは不明だが、羅山・癸巳日光紀行と同年である点が気にかかる。
イメージ 6

 
 
正田正行がケブ村を訪れた理由が、「神話のコノシロ伝承地を探しに来た」というファンタジーな理由であるだけに、さらに空想を広げてみれば、足利から毛武(上州を通りぬけて武蔵)に向かう林羅山に、徳川東照宮群馬県太田市徳川町)などが便宜をはかっているのではないか。(と連想したのかも知れない)

月谷仙元宮と浅間大菩薩



足利市の月谷町にある古刹、行道山浄因寺。夜半に雪が降ると早朝から写真愛好家が撮影に向かうという絶景ポイントでもある。
 
 
イメージ 1


  行道山へと向かう市道沿いに建てられた観世音菩薩像。


この尊像の南方には山神社、道向いにある崖の上には仙元宮の石祠が祀られている。昔はここの崖を巻いて登ったのかも知れないが、いまはこの先にある浮石弁財天まで進み、対面の山内に建てられた鳥居を目印に入って行く。


イメージ 2



イメージ 3

 
 
江戸時代、この山には60余州を表した石仏が祀られ「ポックリ信仰」として、全国巡礼の疑似体験が行われていた。



イメージ 4

その石仏も、数年前の道路改良工事(落石防止網工)によって一カ所に集められたり、山から降ろされたりした為、山内での全国巡りは出来なくなってしまった。
 
 
 
イメージ 5 崖先にある仙元宮。


台石の正面は富士山方面を向いているが、お宮は180度回転していて向拝柱を欠く。
 
イメージ 6

台石には「三峰に咲」の講印があり、嘉永二年(1849)と刻まれる。
 
この講が活動した期間は不明だが、足利図書館で行われた富士講の企画展(2015)には、月谷村の冨士浅間神社に奉納された幟7点が展示されていた。(明治四三年~大正拾四年)
この内6点の奉納日が61日と6月吉日であることから、月谷の富士浅間信仰は大正時代の末まで続き、初山祭に合わせた神事が行われていたようだ。
 

イメージ 7

       (東京の富士講マネキ)

富士山と木花咲耶姫を表したこのデザインは、富士講の講印をならべた絵図「講中惣印」や、60年に一度の富士山御縁年に押し寄せて来た登拝者をモチーフにした「冨士山北口男女登山」の絵の中でも見られるもの。

これ以外でも、富士山・木花咲姫・三光などからイメージされた講印は多く見られる。

 

 
 月谷仙元宮と直接の関係はないが、同じ山内にあるポックリ信仰の石仏にも富士山にまつわるものがある。仙元宮の100年前に作られた石仏たちだが、これらも信仰の対象にされていたと考える。


 
イメージ 8

 下野国 室八嶋一宮  寄進者は、梁田郡萬福寺の恵弘


 室八嶋一宮とは、下野惣社式内社一之宮)。
惣社大明神の本地仏は不明であり、合掌する坐像も特定は出来ないが下野惣社などの社伝から、男体山との関係が気になる仏である。
 
 
寛文九年(1669)の古文書には、下野国都賀郡府中室八島惣社大明神は日光山・宇都宮・武蔵鷲宮駿河富士浅間御同躰之神霊とあり。
 
元禄元年(1688)『下野風土記』には、富士参詣をする人々は、まず室の八島にお参りして、竹の葉を持ち帰りお守りにするとある。
 
天保九年(1838)の「惣社明神由緒」には、宇津室八島大神を下野国長山(国長山=黒髪山=日光男体山)に納めたとあり。これに続けて、惣社大明神の奥院は国長山頂に有(中略)勝道上人は下野国都賀郡室八島にて誕生 国芳賀郡にて成長 薬師寺にて剃髪 出流山千手観音を祈り二荒山を(後略)の記述が見られる。
 
 
角行の法脈を継いだ二世は、下野国河内郡宇津宮宿鉄砲町住であり
日光中禅寺湖で水行をする角行と会い、授かった霊符によって子供の病気が治ったことが縁で弟子になったという。それに続く三世も下野国宇都宮押切町の生まれだったことを考えれば、正保三年(1646)の角行没後、伝言ゲームの初期段階から、下野の神仏が布教に利用されていてもおかしくはない。

宇都宮大明神の目前で暮らしていた二世が、宇都宮大明神  日光男体山 星宮 妙見 室の八嶋などの信仰と無縁でいたとも思えない。
 
 

勝道上人が奈良時代男体山に登った天応2年(782)から1234年目。男体山や出流山千手院満願寺など、栃木県内に点在するこれらの場所へ出かけるキッカケには良い年かも知れない。


 
イメージ 9

駿河国 富士山 宝暦四年(1754 施主は上野国邑楽郡篠塚村の人。



イメージ 10


    蓮華座には、するが 冨士山とある。

イメージ 11


左手を上に重ねた印相は大変気になるところではあるが、古くより浅間大菩薩の本地仏大日如来


天道山の仙元大日(足利市山川 福聚山長林寺蔵)や、下野国安蘇郡天命住の鋳物師 大田宣定が作った冨士中宮大日(神奈川県海老名市 明徳山東林寺蔵)も胎蔵界大日如来坐像である。


 イメージ 12 

東林寺本尊の天命鋳物

イメージ 13

上の資料は古く、スケッチに誤記あり。現物確認による背面銘文は、「大田右衛門弐郎 作天命金屋住 天文四年乙未二月十六日 冨士中宮大日 願主別當 順仙 靏子」である。
 
室町時代1535年に作られた冨士中宮大日は、=木花咲耶姫ではない時代の大日如来であるが、富士の神を木花咲耶姫としていた江戸時代の駿河国石仏は、「三峰に咲」の講印でも表すことが出来る。


 
イメージ 14

落石防止工事により、駿河国の石仏も山から降ろされてしまった。そして残念なことに移動した場所は、犬のトイレだったようだ。
 


 近県にある北関東の浅間大菩薩を見てみると、群馬県谷川岳
「永禄八年(1565)乙丑六月一日 冨士浅間大菩薩」の銘が刻まれた二面の懸仏あり。(虚空蔵坐像と、十一面観音立像の古鏡二面)
足利でも上州沼田城ゆかりの旧家などでは、谷川岳の浅間大菩薩を伝え聞いていたかも知れない。
 
 
茨城県坂東市にある享保2年(1717)の野仏(阿弥陀三尊像+富士山に浅間大菩薩と陰刻)には「浅間大菩薩」と刻まれてはいるが、この石仏の主役は阿弥陀三尊による御来迎。(富士山頂でのブロッケン現象
 
 
この他にも「浅間大菩薩」と文字で刻まれた石碑などが見られるが、足利市月谷町のように駿河国富士山を表した石仏は希少。
ポックリ信仰の石仏が散失する原因となる可能性もあり、山から降ろされてしまった石仏たちが山内へと戻れる日が来ることを祈る。
 
 

 
これは余談であるが、月谷町には「岩花」という字あり。いつの時代からある字名なのか不明だが、姉妹の神を連想する。

イメージ 15

江戸時代後期の画家で田原藩士の渡辺崋山が、この字名を読み替え命名したという「巖華園」には、山の斜面に巨石で作られた築山あり。


これを富士山に見立てた人もいただろう。画家の谷文晁もその一人だったかも知れない。
 
 月谷町の旧家から、新しい史料が発見されることを期待している。

200年ほど前の芝居騒動と、冨士山舞具を見ていた?足利学校19世

県立足利図書館で公開されている「足利の富士講 秘巻の霊統展」の襖絵は、2月1日から入れ替え展示されるようです。


この襖絵が浅間神社の社地に伝わっていたのでなければ、絵師英悦さんの絵と言うくらいにしか感じなかった訳ですが

大昔の足利学校の領民がおこした芝居騒動と久保田町浅間神社の奉納芝居。

この2つの芝居を見ていた(聞いていた)当時の人々を想像する役にたつと思う。



 200年前の話しをする前に、今月中に話しておいた方が気分が良い300年ほど昔の、お寺の話しから


イメージ 1

久保田町浅間神社に程近い、玉林山本源寺は、鎌倉時代開創と伝わる 臨済宗 建長寺派のお寺です。


イメージ 2

本尊の延命地蔵菩薩像の厨子には、「癸 元禄六年 酉 霜月廿四日」( 1693年11月24日 )の銘文があり
あえて旧暦でいえば、今月(2015年)1月14日からみて、321年前の日付。


京堀川の大仏師 法橋 福田康圓作との銘があり、その仏師が想定した拝観位置はこのあたりでしょうか


イメージ 3

歴代住職の表にある、本源寺 第21世・22世が、足利学校の庠主(校長)第19世と20世になっています。


仏教を伝えることが目的でないのが足利学校ですが、京都南禅寺派のお寺でしたので校長もお坊さんです。
入学した学生も僧籍になるので、学費が無料というのも納得です。



 以前、足利学校を見学していた時に、家族連れのお父さんが「ここのどこが学校なんだよ!」と、急に大きな
声をあげられたので、びっくりした経験があります。頭の中にどの時代のどんな学校を思い描いていたのか
わかりませんが、「なんだか子供がかわいそうだな~」と…
教材と学生と教師がそろえば、そこが野原や河川敷でもいいわけで、しかも徳川幕府公認だったのですから。



イメージ 4

 久保田町浅間神社の入り口にある石灯篭には、天明8年(1788)とありますが

今回は、その翌年の(寛政元年)に起こった、足利学校領内での芝居興行にまつわる騒動の話し。


久保田村 本源寺の住職 実巌宗和が足利学校第19世庠主になったのが文化元年(1804)ですから、それよりも
15年前、足利学校第18世 青郊元牧(庠主就任 天明7年~)の時代。


 足利学校の領民から18世に、五穀豊穣祈願のため、三日間の買芝居の興行をしたいと願い出があった。
  (地方廻りをする旅役者の一座を買って、歌舞伎を上演してもらうと言うもの。)


18世は、先例がないとして足利学校領内での芝居興行は認めなかったので、領民たちは学校領の外の
助戸村にて芝居をするという事で18世の許可をもらった。

興行は三日間との約束であったが、採算が取れないため一日延期したいという領民と、それを認めない足利学校
いさかいとなり、18世は前庠主の17世および戸田家や江戸金地院と相談して、寺社奉行所へ報告をする。

奉行所では、問題として取り上げるほどではないとの判断であった。



宮地芝居などを支配していたのが寺社奉行であり、庶民に倹約を強要した寛政の改革では、地芝居に対する幕府の
弾圧は厳しかったそうですが、まだ寛政元年の奉行所では、よくある事案としてあしらわれていたようです。


18世庠主が一番恐れていたのは幕府とトラブルを起こすことだったと考えますが、寛政3年(1791)に幕府から
足利学校修復費として200両が下賜されている。

多額の修繕費用を幕府に頼るしかない足利学校としては、たとえ一部の領民の反感を買うことになっても
学校領内での芝居興行などという余計なことは、認められなかったのでしょう。



 今回の芝居騒動にも出てくる前17世庠主 千渓元泉が推薦した、久保田村 本源寺の住職 実巌宗和が、
幕府の任命を受けて学校第19世庠主になりました。

その後の足利学校領内で、芝居が行われたかどうかはわかりませんが、天下泰平・五穀豊穣を祈願する
民俗芸能として地芝居に理解を示したことでしょう。学校領内での興行を認めたかどうかは別問題ですが。




県内にて現存する歌舞伎に、 栃木県無形民俗文化財の牧歌舞伎がある。

常盤神社・秀林寺で上演されていたようですが、葛生牧地区では昭和40年代まで、数え7歳になるこどもが
水垢離をした後に、地元の浅間山に登るという祭事が続いていたという。


また、足利周辺には、舞台の襖絵や組立式舞台が残っており、やはりそれらの地域にも浅間信仰のあとがある。
庚申年や庚寅年と絡めて見ると、興行収入で買い替えたのかと想像するようなものもある。それらすべてを
浅間信仰と結びつけたい訳ではないが、天下泰平・五穀豊穣を祈願する民俗芸能との相性は良かったと思う。


「麦はいつまく、芝居はむまく」(いつまく?が五幕と六幕に掛かっている言葉遊び)と聞いたことがある方も
今ではもういないかもしれない。



本源寺さんの本堂で見る、湊素堂老師の書

イメージ 5

春夏秋冬 日光は平等に射し 月は清らか

イメージ 6

疑られるようなことはしないように

足利図書館 秘巻の霊統展にみる舞具

県立足利図書館の展示室にて開催されていた「足利の富士講 秘巻の霊統展」


土日・祝日は、午後5時までとのことで、閉館前だったので一回り見てチラシをもらい帰ってきた。



足利に伝わる 御身抜きが7点に増え、御伝え や 祝詞なども加わり、以前に足利美術館で見た史料よりも
さらに充実した展示内容になっていました。




特に、久保田町の「村芝居背景ふすま絵」が展示されていたのには驚きました。
これは、いまでも開帳祭が行われている浅間神社の舞具だったものです。

  襖絵 12箱 240枚(両面に絵)
  障子 3箱 27枚
   幕 2箱 多数 

現在は足利市に預けられていますが、合計12箱と膨大な量があり、これらを背景としてお面を付けて舞ったという。


イメージ 1

毎年の例祭のほか、60年に一度の庚申年は 開帳
         60年に一度 庚寅年には 半開帳 が行われており

むかしは集会所のところにあった建物で、地芝居(農村歌舞伎)をしたそうです。

舞具の入った箱書きには、寛政6年(1794)の銘もあるので、寛政12年(1800)の庚申年のお祭りでも
舞が奉納されたのでしょう。

*ただ、30年ごとのお祭りだけで舞われていたのでは無いのでしょうし、依頼により出張もしたという。




富士吉田市にみる吉田歌舞伎も、江戸後期に富士講信者により伝えられたと言われているので
コノハナサクヤヒメを芸能の神様として祀る、芸能浅間神社などがあってもなんら不思議ではない。



イメージ 2

この神社の灯篭には、天明8年(1788)とあり、その60年後の嘉永元年(1848)には社殿の修理をしている。
また、立像が奉納された享和元年(1801)は、庚申年の翌年であり、ここでは庚申年を基準として祭りの準備や
神社の整備などがすすめられていたのだろう。


イメージ 3

足利で見る山田氏がらみの富士登山33度碑は、古くて天保10年(田中町)新しいものでは大正2年(田島町)が
あるが、こちらにある石塔は、富士登山30回目のころであった 天保7年(1836) 長嶋氏 が建てたもの。

当然これらよりも富士山信仰の歴史は古いのであり

その時代の背景を絡めて見れば、演劇部が学園祭で作った書き割りのような最初の扉絵も、江戸時代からつづく
地芝居の歴史があり、大正9年の庚申年開帳で実際につかわれた祭具でもあったわけです。





   

今だからこそ世界遺産 「日光」! 星宮神社から

群馬県富岡製糸場世界遺産に、富士山は登録一周年ということで

あえて、栃木県の世界遺産「日光」につながるような話を。



梁田町の星宮神社から、まずは始めたいと思う。


イメージ 1 梁田 星宮神社の本殿


日光の寺社を手掛ける職人達も、厳冬期の日光では寒くて仕事が出来ず
その時期は足利で過ごす人も居たようです。


宿場で遊ぶ費用を稼ぐため、日光の職人が足利の社殿を手掛けたという話しを
複数の神社で聞いたりします。

(宿でつくった借金を返済するためなど)



イメージ 2 イメージ 3
 
星宮神社 本殿の四隅には、それぞれ猿の彫刻があります。
これは、この猿達の属性が「水」であり、火伏のための彫刻なのだそう。



イメージ 4

イメージ 5

虚空蔵菩薩の神使いが「鰻」ということから、ウナギの彫刻もあり
こちらは、波の中を泳いでおり「水」のイメージそのもの



 まずは、星宮と「明星天子虚空蔵菩薩」の流れを整理しておきましょう。

明星は明るい星ですから、一般的には金星をさします。
そして明星天子は、智恵や記憶などの利益をもたらす虚空蔵菩薩として祀られる。

 宵の明星=磐裂神
 暁の明星=根裂神
 夜中の明星=経津主神

地球から見て、太陽の近くを周る金星を夜中に見ることは出来ないので、夜中の明星は「木星

金星には及ばずとも、木星も明るい星であり、惑星なので瞬かない。
そして、当たり前のことながら月や金星と同じく光は太陽光。
夜には太陽はないと言ったところで、夜の闇を照らす月明かりの元は太陽である。




 経津主神とは『日本書紀』に登場する神であり、磐裂神・根裂神の御子である
磐筒男神磐筒女神が生んだとされる。


 話しの流れがわかりずらくても、そこは神話なので…


三つの明星のうち、二つは同じ「金星」じゃないかと思っても
古くはそれぞれ別の星だと考えられていたようです。



イメージ 6

 月・星・日で三光といいますが

足利市大久保町にある石灯籠の火袋に見る
 
「月・晶・日」のデザインも同じ

 
(※晶は星を表した象形文字、晶も生も"ショウ"と読めば「サンショウサマ」)




三つの星と言っても、三星様(オリオンのベルト)(中国での「参」)、
妙見を表した三つ星、三つの明星などなど、場所によって意味合いの違いはあるでしょうが星は星。

 
 三つ星のところが(七曜・九曜・北斗七星)などのバリエーションが見られる所もある。




 上記の石灯籠、正徳乙未5年(1715年)奉納のもので、正面には卍紋。
さらに、奉納者の筆頭は川田氏。


同じ寺院内には、日光型庚申塔に見るような「左卍と下部の蓮華」の板碑も一基見られるが、
正徳2年には村上光清がすでに指導者になっていたので、時期的にも卍講の可能性はある。



正徳5年から、この場所・この向きに灯篭が建っていたはずはないが、
現在、この灯篭が向いている先は、偶然にも「浅間山(三足富士)」と呼ばれていた山。


イメージ 7



 無理にこじつけたりせずとも、足利では日光の寺社や修験の影響を受けていた。

ひとくちに日光と言っても、日光大権現と東照大権現はちがい、足利でいう日光神社とは
当然「日光大権現=男体山=千手観音=大己貴命=大黒天」のほうである。

 富士山信仰との絡みで言えば、下野富士=日光富士=男体山とも言える。




千手千眼観自在菩薩の「センジュ様」、これを広辞苑に載っているように
千眼千臂観世音菩薩と呼びかえれば「センゲン様」
実際に、千手菩薩を「センゲン様」と呼んだ人たちもいたそう。

 仙元様とは違うとは言っても、ご当地富士も兼ねる男体山
「センゲン」の音が同じく呼べるというのは、意外と大切なポイントかも。


 また、男体山=千手観音=大己貴命と同じように、女峰山=阿弥陀・太郎山=馬頭をあわせて
足利では日光三所大権現と呼ばれた神社が、明治維新後には三柱神社などに改名している。




これらの日光三山とは、熊野三山を取り入れたものであり、少し話が脱線してしまうが
足利北部や田中村などは朝倉村の丸山氏により、足利東部の大久保村などは
同村の小野寺氏によって、京都聖護院末 幸手不動院(本山派 熊野信仰)の影響も受けたはずである。



今となってはどこにあったのかわからない樺崎村にあった秋葉寺も、古文書により
江戸時代末期には、「本山 幸手不動院末」修験系の寺であったことがわかっている。


佐野市高山の熊野神社内 浅間神社には富士山登拝大絵馬が残るなど、意外と熊野神社
星宮神社や日光神社と同様に、富士山信仰が残りやすい神社のような気がする。



 
 
 話しを最初の星宮神社にもどして、金星=虚空蔵=鉄についても少し触れておきたい。

 星宮が金星なのはどちらにも星の字がつくからと言うことで、わかり安いかもしれない。
金星=産鉄・炭鉱業となるのも「鉄」には、同じく金の字が入るからでいいと思う。

隕石には鉄成分の多いものがあることから、星=鉄でもいい。


 足利周辺には、太田金山・佐野天明など産鉄にかかわるところが多い。
そこから、たたら製鉄の鉧(ケラ)を連想すれば漢字は「金に母」

炉の中(母の胎内)を焼きなが出てくる火の神を連想すれば、カグツチと磐裂神の話にも
つながりそう。




 明星の字を分けると「日・月・星」だから三光。

 
 二荒は日光。



 足利の樺崎村で「なぜコノハナサクヤヒメ像を祀ったか?」というお題を出されたら
「木・花・咲・尊」に通じるからでも、「桜咲く村にしたいから」でもOK


実証主義者ではない昔の人も、こんな感覚だと思う。

明日の、正月3日は 三日月なので、三日月信仰のはなし

 足利市梁田町にあった浅間神社は、道向いの星宮神社に合祀され、今は空き地になっている。


イメージ 1

 星宮神社に建つ石灯篭に見る、三光待講。

 星宮の名にふさわしい、星信仰があったようですね。


富士山信仰でも星を祀る「星祭り」が見られ、 藤原月旺の巻物では三光(3つ並んだ星)を
描いたものが見られる。



イメージ 2

 星宮神社の三日月信仰の石碑 「三日月塔」


 梁田で聞く三日月講は、正月3日まではお餅を食べてはいけないというもの。
 1日・2日はお蕎麦を食べるのが吉祥、3日になってから餅をついて食べるのだという。


新月を、月の始まる日としていた陰暦。毎月3日が三日月だったというよりは、三日月の日を
3日と認識していたので問題なかったが、現在は3日が三日月(月齢2日)になることはマレ。

 今年のように、3日が三日月に当たる月が、2回もやって来る年は珍しい。


2014年の1月3日は旧暦12月3日ですが、そんなことよりも正月3日の三日月として楽しみたい。



 3日の当日がくもり空などで、三日月が見えそうにない時には…
 両崖山の足利城址にある、三日月神社に参拝するのもいいかも知れません。



イメージ 3

 三日月神社では、いつでも(御神体に)三日月を見ることが出来ます。






イメージ 4

 星宮神社の境内には、「元祖食行」や「小御嶽」の石碑があることから、浅間神社の境内には
 富士塚があったのか。(富士山5合目と7合5勺を示すのに利用出来るため。)




イメージ 5

 梁田戦争の戦死者を弔ったお墓である戦死塚を、渡良瀬川の河原から浅間神社の境内に
 移築したという、地元の方のお話しも聞く。(その後、戦死塚は長福寺へと再移築。)


浅間神社の境内にあった富士塚を、戦死塚として再利用したものか。戦死塚を見ていたら、
そんなことを考えた。

天道山 江戸に渡った不思議な鏡

イメージ 1

足利の南大月の山を眺めると、浅間山や両崖山からも、松田ダム反射板鉄塔の白ボードが見えます。


 戦前には、県内の約200ヶ所で行われた天祭。大月村でも「天ノ祭」を行った山が天道山です。



イメージ 2

山頂には日月神社の立派なお宮が建っていましたが、昭和58年2月23日焼失してしまいました。


 明治の地誌取調書に見る 日神社・月神社は、どちらも現在は石祠になっている。



イメージ 3

 山には大きな鏡岩。


そしてこの山には、夜になると光を放つ不思議な鏡の話しが伝わっています。


『 続々足利の伝説(台一雄、岩下書店)第七話 』

 明暦年間(1655~57)助戸村の木こりが山で神鏡を見つけて持ち帰ると、その晩に鏡が光だす。
 数年後、木こりは江戸の武家屋敷へ奉公に出ることになり、鏡をもって行った。すると江戸では
 天候不順がおこり、その原因を占うと、鏡が山に帰りたがっているためであるという。
 この鏡は江戸の町で話題となり、寛文元年(1661)安藤氏が天道山に建てたお宮に祀られたという。






それから22年後、足利大月村に訪れ布教活動を行った角行の法脈4世 月ガン・後の5世 月心が、
江戸の切支丹御奉行に、お取調べを受けることになった。


 足利樺崎村・大月村の信徒からも入牢される者が出て、生国大月村の権左衛門の取調べでは、
「月ガンの家の持仏堂には、不思議な鏡があると言うが見たことがあるか。」とのお尋ねがあり、
「不思議な鏡などは見たことはない。嘘だと思うならば使者を遣わしご覧になってください。」と
 いうようなやり取りがなされたという。


4世月ガンの持仏堂にあると疑われた不思議な鏡について、大月村の者にお尋ねになったことは、
かつて江戸の町で話題になった、大月村の不思議な鏡との関係を感じさせます。


足利を訪れた月ガン・月心は、日光行道山・出流観音(栃木市)・天もり山を見て回ったというが
足利周辺に、天もり山という名の山はなく。これは「天もり山=天守山=天道山」だろうと考える。



イメージ 4


この山には、亀にも見える大きな岩や鏡岩のほか、人工物では水盤・歌碑・石灯篭があり。


 一基だけ建っている石灯籠には、笠石に三つの紋が彫られている。


南面に彫られている旗本 真田家の六連銭は、歴女にも人気がある家紋のひとつでしょう。
また灯篭正面には巴紋、北面には旗本 桑山家の桔梗紋があり、旗本のコラボ作になっている。



平将門を祀る家などでは、着物の柄であっても桔梗のデザインは避けられたというが、
旗本の家紋が桔梗であるなどは、誰も気に留めなかったでしょう。




イメージ 5

弘化2年に建てられた歌碑が、倒れて枯葉の下に埋まっています。

 この歌碑に詠まれているほど、壮大な山という感じは受けませんが、大きな鏡岩のある
天道山からの眺めは、忘れられない景色であるという気持ちはわかります。


イメージ 6

 天道山頂より





イメージ 7


足利では、高速道路の動物飛び出し注意の看板がイノシシの絵になっているほど。
山のふもとでは、イノシシ用のわなを良く見かけます。

天道山で祀られていた 胎蔵界大日如来坐像(仙元大日)は、現在は他の町内にあるお寺にて
お祀りをされている。東の京都と呼ぶのにふさわしい景観と歴史を持つお寺へ移されたことは、
防犯の面から考えると、大変喜ばしいことだと思います。



 仙元大日の頭に乗っている日章を見ていると、三日月のデザインも感じます。
 天道山・日月神社などから考えれば、これは日月紋であるのかも知れません。 

 
 仏の身体に備わる特徴のひとつである、髪色如青珠(毛髪は青色)である上に、
 髪留めが白い色なので、まるで富士の冠雪のようにも見えてきます。


 白色の顔料である胡粉がこぼれ落ちたのか、白色と青色のグラデーションがさらに
 それっぽく感じさせています。