「足利学校国宝展」で見る国宝書籍 (からの林羅山)
「足利学校国宝展」開催中
国宝書籍4種77冊のうち4種16冊が展示されている。
8代将軍吉宗の取り寄せ閲覧。
戦時中の戦火を避けるための持ち出し。
市立美術館での一部展示などを除き、門外不出であったもの。
北条氏政寄進の「宋刊本文選(国宝)」に加筆した三要の識語あり
今回の国宝展に展示される国宝の書籍を借りたような表現であるが、足利学校に貸し出した記録がなく門外不出の書籍である事を考えれば、借り受けたのは羅山も納得する出来栄えの写本であろう。
*癸巳は承応2年
*足利学校に五経注疏や論孟注疏という本がある訳ではなく、儒教の経書の中でも特に重要であるとされた四書五経の「易経(占い)」「書経(政治)」「詩経(詩)」「礼記(礼儀)」「春秋(歴史)」や「論語」「孟子」などを指す。
*左は無料でもらえる図録
林羅山について
元和2(1616)年 羅山が著した東海道の紀行文『丙辰紀行』では、三島の項にて「伊豆の三島はむかし伊豫國より遷して大山祇神をいわいまつる。いつぞや相國の御前にて三島と富士とは親子の神なりと世久しくいひ傳へりと沙汰ありければ、さては富士の大神をば木花開耶姫と定め申さば日本記のこゝろにも協ひ申すべきなり。竹取物語とやらんにいへるかくや姫は後の代の事にてや侍らん」とある。
BS‐TBSの歴史番組 にっぽん!歴史鑑定「♯73 日本人の心・富士山ミステリー」(2016年8月29日放送)では、富士山の神を、かぐや姫からコノハナサクヤヒメへと変えた人物として林羅山を取り上げていた。
番組内容
霊峰・富士には、歴史の闇に埋もれてしまった様々な「ミステリー」が存在する。全国にある浅間神社で、富士山の祭神とされる女神「コノハナサクヤヒメ」しかし、江戸時代までは富士山の神様は「竹取物語」で知られるかぐや姫だったという!なぜかぐや姫は祭神の地位を剥奪されたのか?答えは江戸時代にあった。他
「日光ノ神 富士ノ神等ノ諸神ヲ 此ニ請迎ス 然レドモ其ノ始メヲ詳ニセズ」とあるので、羅山が始まりについて尋ねてもわからなかったようだ。
八島に祀られた神々を(日光の神 富士の神等の諸神)と表しているのは、情報提供者の言葉か羅山の印象か。
勾玉は三日月を、剣は北斗七星(妙見・七星剣・七星文・破軍星)を連想する。この例えは下野國でウケが良かったと思われる。
足利の先達 正田正行を開祖とする富士講社があった、「癸生のせんげんさま」(栃木市大塚町癸生浅間神社)の社伝では、正田正行がケブ村に訪れた年を 承応2年であるとするが、これでは足利の正田正行とは年代が合わない。
なぜ承応2年としているのかは不明だが、羅山・癸巳日光紀行と同年である点が気にかかる。
正田正行がケブ村を訪れた理由が、「神話のコノシロ伝承地を探しに来た」というファンタジーな理由であるだけに、さらに空想を広げてみれば、足利から毛武(上州を通りぬけて武蔵)に向かう林羅山に、徳川東照宮(群馬県太田市徳川町)などが便宜をはかっているのではないか。(と連想したのかも知れない)
月谷仙元宮と浅間大菩薩
足利市の月谷町にある古刹、行道山浄因寺。夜半に雪が降ると早朝から写真愛好家が撮影に向かうという絶景ポイントでもある。
行道山へと向かう市道沿いに建てられた観世音菩薩像。
この尊像の南方には山神社、道向いにある崖の上には仙元宮の石祠が祀られている。昔はここの崖を巻いて登ったのかも知れないが、いまはこの先にある浮石弁財天まで進み、対面の山内に建てられた鳥居を目印に入って行く。
江戸時代、この山には60余州を表した石仏が祀られ「ポックリ信仰」として、全国巡礼の疑似体験が行われていた。
その石仏も、数年前の道路改良工事(落石防止網工)によって一カ所に集められたり、山から降ろされたりした為、山内での全国巡りは出来なくなってしまった。
崖先にある仙元宮。
台石の正面は富士山方面を向いているが、お宮は180度回転していて向拝柱を欠く。
(東京の富士講マネキ)
これ以外でも、富士山・木花咲耶姫・三光などからイメージされた講印は多く見られる。
月谷仙元宮と直接の関係はないが、同じ山内にあるポックリ信仰の石仏にも富士山にまつわるものがある。仙元宮の100年前に作られた石仏たちだが、これらも信仰の対象にされていたと考える。
天保九年(1838)の「惣社明神由緒」には、宇津室八島大神を下野国長山(国長山=黒髪山=日光男体山)に納めたとあり。これに続けて、惣社大明神の奥院は国長山頂に有(中略)勝道上人は下野国都賀郡室八島にて誕生 同国芳賀郡にて成長 薬師寺にて剃髪 出流山千手観音を祈り二荒山を(後略)の記述が見られる。
日光中禅寺湖で水行をする角行と会い、授かった霊符によって子供の病気が治ったことが縁で弟子になったという。それに続く三世も下野国宇都宮押切町の生まれだったことを考えれば、正保三年(1646)の角行没後、伝言ゲームの初期段階から、下野の神仏が布教に利用されていてもおかしくはない。
蓮華座には、するが 冨士山とある。
東林寺本尊の天命鋳物
上の資料は古く、スケッチに誤記あり。現物確認による背面銘文は、「大田右衛門弐郎 作天命金屋住 天文四年乙未二月十六日 冨士中宮大日 願主別當 順仙 靏子」である。
落石防止工事により、駿河国の石仏も山から降ろされてしまった。そして残念なことに移動した場所は、犬のトイレだったようだ。
「永禄八年(1565)乙丑六月一日 冨士浅間大菩薩」の銘が刻まれた二面の懸仏あり。(虚空蔵坐像と、十一面観音立像の古鏡二面)
ポックリ信仰の石仏が散失する原因となる可能性もあり、山から降ろされてしまった石仏たちが山内へと戻れる日が来ることを祈る。
これは余談であるが、月谷町には「岩花」という字あり。いつの時代からある字名なのか不明だが、姉妹の神を連想する。
これを富士山に見立てた人もいただろう。画家の谷文晁もその一人だったかも知れない。
月谷町の旧家から、新しい史料が発見されることを期待している。
200年ほど前の芝居騒動と、冨士山舞具を見ていた?足利学校19世
県立足利図書館で公開されている「足利の富士講 秘巻の霊統展」の襖絵は、2月1日から入れ替え展示されるようです。
この襖絵が浅間神社の社地に伝わっていたのでなければ、絵師英悦さんの絵と言うくらいにしか感じなかった訳ですが
この2つの芝居を見ていた(聞いていた)当時の人々を想像する役にたつと思う。
200年前の話しをする前に、今月中に話しておいた方が気分が良い300年ほど昔の、お寺の話しから
京堀川の大仏師 法橋 福田康圓作との銘があり、その仏師が想定した拝観位置はこのあたりでしょうか
歴代住職の表にある、本源寺 第21世・22世が、足利学校の庠主(校長)第19世と20世になっています。
以前、足利学校を見学していた時に、家族連れのお父さんが「ここのどこが学校なんだよ!」と、急に大きな
声をあげられたので、びっくりした経験があります。頭の中にどの時代のどんな学校を思い描いていたのか
わかりませんが、「なんだか子供がかわいそうだな~」と…
教材と学生と教師がそろえば、そこが野原や河川敷でもいいわけで、しかも徳川幕府公認だったのですから。
声をあげられたので、びっくりした経験があります。頭の中にどの時代のどんな学校を思い描いていたのか
わかりませんが、「なんだか子供がかわいそうだな~」と…
教材と学生と教師がそろえば、そこが野原や河川敷でもいいわけで、しかも徳川幕府公認だったのですから。
今回は、その翌年の(寛政元年)に起こった、足利学校領内での芝居興行にまつわる騒動の話し。
興行は三日間との約束であったが、採算が取れないため一日延期したいという領民と、それを認めない足利学校の
いさかいとなり、18世は前庠主の17世および戸田家や江戸金地院と相談して、寺社奉行所へ報告をする。
いさかいとなり、18世は前庠主の17世および戸田家や江戸金地院と相談して、寺社奉行所へ報告をする。
奉行所では、問題として取り上げるほどではないとの判断であった。
宮地芝居などを支配していたのが寺社奉行であり、庶民に倹約を強要した寛政の改革では、地芝居に対する幕府の
弾圧は厳しかったそうですが、まだ寛政元年の奉行所では、よくある事案としてあしらわれていたようです。
弾圧は厳しかったそうですが、まだ寛政元年の奉行所では、よくある事案としてあしらわれていたようです。
今回の芝居騒動にも出てくる前17世庠主 千渓元泉が推薦した、久保田村 本源寺の住職 実巌宗和が、
幕府の任命を受けて学校第19世庠主になりました。
幕府の任命を受けて学校第19世庠主になりました。
県内にて現存する歌舞伎に、 栃木県無形民俗文化財の牧歌舞伎がある。
また、足利周辺には、舞台の襖絵や組立式舞台が残っており、やはりそれらの地域にも浅間信仰のあとがある。
庚申年や庚寅年と絡めて見ると、興行収入で買い替えたのかと想像するようなものもある。それらすべてを
浅間信仰と結びつけたい訳ではないが、天下泰平・五穀豊穣を祈願する民俗芸能との相性は良かったと思う。
庚申年や庚寅年と絡めて見ると、興行収入で買い替えたのかと想像するようなものもある。それらすべてを
浅間信仰と結びつけたい訳ではないが、天下泰平・五穀豊穣を祈願する民俗芸能との相性は良かったと思う。
「麦はいつまく、芝居はむまく」(いつまく?が五幕と六幕に掛かっている言葉遊び)と聞いたことがある方も
今ではもういないかもしれない。
今ではもういないかもしれない。
本源寺さんの本堂で見る、湊素堂老師の書
春夏秋冬 日光は平等に射し 月は清らか
疑られるようなことはしないように
足利図書館 秘巻の霊統展にみる舞具
県立足利図書館の展示室にて開催されていた「足利の富士講 秘巻の霊統展」
土日・祝日は、午後5時までとのことで、閉館前だったので一回り見てチラシをもらい帰ってきた。
襖絵 12箱 240枚(両面に絵)
障子 3箱 27枚
幕 2箱 多数
障子 3箱 27枚
幕 2箱 多数
現在は足利市に預けられていますが、合計12箱と膨大な量があり、これらを背景としてお面を付けて舞ったという。
毎年の例祭のほか、60年に一度の庚申年は 開帳
60年に一度 庚寅年には 半開帳 が行われており
60年に一度 庚寅年には 半開帳 が行われており
むかしは集会所のところにあった建物で、地芝居(農村歌舞伎)をしたそうです。
舞具の入った箱書きには、寛政6年(1794)の銘もあるので、寛政12年(1800)の庚申年のお祭りでも
舞が奉納されたのでしょう。
舞が奉納されたのでしょう。
*ただ、30年ごとのお祭りだけで舞われていたのでは無いのでしょうし、依頼により出張もしたという。
この神社の灯篭には、天明8年(1788)とあり、その60年後の嘉永元年(1848)には社殿の修理をしている。
また、立像が奉納された享和元年(1801)は、庚申年の翌年であり、ここでは庚申年を基準として祭りの準備や
神社の整備などがすすめられていたのだろう。
また、立像が奉納された享和元年(1801)は、庚申年の翌年であり、ここでは庚申年を基準として祭りの準備や
神社の整備などがすすめられていたのだろう。
足利で見る山田氏がらみの富士登山33度碑は、古くて天保10年(田中町)新しいものでは大正2年(田島町)が
あるが、こちらにある石塔は、富士登山30回目のころであった 天保7年(1836) 長嶋氏 が建てたもの。
あるが、こちらにある石塔は、富士登山30回目のころであった 天保7年(1836) 長嶋氏 が建てたもの。
当然これらよりも富士山信仰の歴史は古いのであり
今だからこそ世界遺産 「日光」! 星宮神社から
あえて、栃木県の世界遺産「日光」につながるような話を。
梁田町の星宮神社から、まずは始めたいと思う。
梁田 星宮神社の本殿
日光の寺社を手掛ける職人達も、厳冬期の日光では寒くて仕事が出来ず
その時期は足利で過ごす人も居たようです。
その時期は足利で過ごす人も居たようです。
宿場で遊ぶ費用を稼ぐため、日光の職人が足利の社殿を手掛けたという話しを
複数の神社で聞いたりします。
複数の神社で聞いたりします。
(宿でつくった借金を返済するためなど)
星宮神社 本殿の四隅には、それぞれ猿の彫刻があります。
これは、この猿達の属性が「水」であり、火伏のための彫刻なのだそう。
地球から見て、太陽の近くを周る金星を夜中に見ることは出来ないので、夜中の明星は「木星」
話しの流れがわかりずらくても、そこは神話なので…
三つの明星のうち、二つは同じ「金星」じゃないかと思っても
古くはそれぞれ別の星だと考えられていたようです。
古くはそれぞれ別の星だと考えられていたようです。
月・星・日で三光といいますが
三つ星のところが(七曜・九曜・北斗七星)などのバリエーションが見られる所もある。
上記の石灯籠、正徳乙未5年(1715年)奉納のもので、正面には卍紋。
さらに、奉納者の筆頭は川田氏。
さらに、奉納者の筆頭は川田氏。
無理にこじつけたりせずとも、足利では日光の寺社や修験の影響を受けていた。
富士山信仰との絡みで言えば、下野富士=日光富士=男体山とも言える。
これらの日光三山とは、熊野三山を取り入れたものであり、少し話が脱線してしまうが
足利北部や田中村などは朝倉村の丸山氏により、足利東部の大久保村などは
同村の小野寺氏によって、京都聖護院末 幸手不動院(本山派 熊野信仰)の影響も受けたはずである。
足利北部や田中村などは朝倉村の丸山氏により、足利東部の大久保村などは
同村の小野寺氏によって、京都聖護院末 幸手不動院(本山派 熊野信仰)の影響も受けたはずである。
話しを最初の星宮神社にもどして、金星=虚空蔵=鉄についても少し触れておきたい。
星宮が金星なのはどちらにも星の字がつくからと言うことで、わかり安いかもしれない。
金星=産鉄・炭鉱業となるのも「鉄」には、同じく金の字が入るからでいいと思う。
金星=産鉄・炭鉱業となるのも「鉄」には、同じく金の字が入るからでいいと思う。
隕石には鉄成分の多いものがあることから、星=鉄でもいい。
明星の字を分けると「日・月・星」だから三光。
二荒は日光。
実証主義者ではない昔の人も、こんな感覚だと思う。
明日の、正月3日は 三日月なので、三日月信仰のはなし
星宮神社に建つ石灯篭に見る、三光待講。
星宮の名にふさわしい、星信仰があったようですね。
富士山信仰でも星を祀る「星祭り」が見られ、 藤原月旺の巻物では三光(3つ並んだ星)を
描いたものが見られる。
描いたものが見られる。
星宮神社の三日月信仰の石碑 「三日月塔」
梁田で聞く三日月講は、正月3日まではお餅を食べてはいけないというもの。
1日・2日はお蕎麦を食べるのが吉祥、3日になってから餅をついて食べるのだという。
1日・2日はお蕎麦を食べるのが吉祥、3日になってから餅をついて食べるのだという。
今年のように、3日が三日月に当たる月が、2回もやって来る年は珍しい。
2014年の1月3日は旧暦12月3日ですが、そんなことよりも正月3日の三日月として楽しみたい。
3日の当日がくもり空などで、三日月が見えそうにない時には…両崖山の足利城址にある、三日月神社に参拝するのもいいかも知れません。
天道山 江戸に渡った不思議な鏡
足利の南大月の山を眺めると、浅間山や両崖山からも、松田ダム反射板鉄塔の白ボードが見えます。
戦前には、県内の約200ヶ所で行われた天祭。大月村でも「天ノ祭」を行った山が天道山です。
山頂には日月神社の立派なお宮が建っていましたが、昭和58年2月23日焼失してしまいました。
明治の地誌取調書に見る 日神社・月神社は、どちらも現在は石祠になっている。
山には大きな鏡岩。
そしてこの山には、夜になると光を放つ不思議な鏡の話しが伝わっています。
『 続々足利の伝説(台一雄、岩下書店)第七話 』
明暦年間(1655~57)助戸村の木こりが山で神鏡を見つけて持ち帰ると、その晩に鏡が光だす。
数年後、木こりは江戸の武家屋敷へ奉公に出ることになり、鏡をもって行った。すると江戸では
天候不順がおこり、その原因を占うと、鏡が山に帰りたがっているためであるという。
この鏡は江戸の町で話題となり、寛文元年(1661)安藤氏が天道山に建てたお宮に祀られたという。
数年後、木こりは江戸の武家屋敷へ奉公に出ることになり、鏡をもって行った。すると江戸では
天候不順がおこり、その原因を占うと、鏡が山に帰りたがっているためであるという。
この鏡は江戸の町で話題となり、寛文元年(1661)安藤氏が天道山に建てたお宮に祀られたという。
それから22年後、足利大月村に訪れ布教活動を行った角行の法脈4世 月ガン・後の5世 月心が、
江戸の切支丹御奉行に、お取調べを受けることになった。
江戸の切支丹御奉行に、お取調べを受けることになった。
足利樺崎村・大月村の信徒からも入牢される者が出て、生国大月村の権左衛門の取調べでは、
「月ガンの家の持仏堂には、不思議な鏡があると言うが見たことがあるか。」とのお尋ねがあり、
「不思議な鏡などは見たことはない。嘘だと思うならば使者を遣わしご覧になってください。」と
いうようなやり取りがなされたという。
「月ガンの家の持仏堂には、不思議な鏡があると言うが見たことがあるか。」とのお尋ねがあり、
「不思議な鏡などは見たことはない。嘘だと思うならば使者を遣わしご覧になってください。」と
いうようなやり取りがなされたという。
4世月ガンの持仏堂にあると疑われた不思議な鏡について、大月村の者にお尋ねになったことは、
かつて江戸の町で話題になった、大月村の不思議な鏡との関係を感じさせます。
かつて江戸の町で話題になった、大月村の不思議な鏡との関係を感じさせます。
この山には、亀にも見える大きな岩や鏡岩のほか、人工物では水盤・歌碑・石灯篭があり。
一基だけ建っている石灯籠には、笠石に三つの紋が彫られている。
弘化2年に建てられた歌碑が、倒れて枯葉の下に埋まっています。
この歌碑に詠まれているほど、壮大な山という感じは受けませんが、大きな鏡岩のある
天道山からの眺めは、忘れられない景色であるという気持ちはわかります。
天道山からの眺めは、忘れられない景色であるという気持ちはわかります。
天道山頂より
足利では、高速道路の動物飛び出し注意の看板がイノシシの絵になっているほど。
山のふもとでは、イノシシ用のわなを良く見かけます。
山のふもとでは、イノシシ用のわなを良く見かけます。
天道山で祀られていた 胎蔵界大日如来坐像(仙元大日)は、現在は他の町内にあるお寺にて
お祀りをされている。東の京都と呼ぶのにふさわしい景観と歴史を持つお寺へ移されたことは、
防犯の面から考えると、大変喜ばしいことだと思います。
お祀りをされている。東の京都と呼ぶのにふさわしい景観と歴史を持つお寺へ移されたことは、
防犯の面から考えると、大変喜ばしいことだと思います。
仏の身体に備わる特徴のひとつである、髪色如青珠(毛髪は青色)である上に、
髪留めが白い色なので、まるで富士の冠雪のようにも見えてきます。