足利大月村に見る 卍講と村上講
東耕地の仙元宮でわかることを羅列すると
・嘉永元年に奉納された石灯篭の連名に福地氏は見られるが、安藤氏は見られない。
・嘉永6年から、2年後に奉納された村上講の水盤に安藤氏は見られない。
・「奉修行八大仙元大菩薩」や「浅間参拾参社」で奉納された木札が残る。
(八社修業(八社参り)や三十三浅間の内のひとつであった。)
・長谷川角行の水行修行の土地であると伝わる。
・角行の法脈より、冨士垢離(水行)を行えば、富士登山と同じ御利益と伝えられていた。
安政4年、富士山御師 小沢久太夫が檀家回り訪れた際の村方寄付金、壱分弐朱(約3万円)は、
久太夫の忰が訪れた際の五倍の金額である。納めた人数がわからないので正確には比較出来ないが、
御師(=御祈祷師)としての役割に金額の差が出たのかも知れません。
久太夫の忰が訪れた際の五倍の金額である。納めた人数がわからないので正確には比較出来ないが、
御師(=御祈祷師)としての役割に金額の差が出たのかも知れません。
足利大月村と富士山御師
世界遺産で見る 足利の村上講
栃木県足利市からでも、白い富士の山頂がはっきり見えるベストシーズンになりました。。
たとえば、足利の村上講の話。
(ちなみに、戦前ですので樺崎村は「椛崎村」。)
明治になり、12世 村上徳永の門人が立ち上げた 村上神徳講のマネキ。
15世から16代 妙清に。(元祖御法家の紙マネキ)
北口開山は長谷川角行。
世→代は、お家騒動もあったとかなかっとか
静岡県 人穴にある御法家(富士御法教)に描かれる藤紋。
これらの藤紋について富士吉田で聞くと、村上藤丸講の講紋とか、藤の丸講の紋であると言われます。
村上光晴の定紋とも言われる、この藤巴紋を見て個人的に感じるのは以下のイメージ。
藤=冨士山(藤山)
巴=巴卍 (仏教美術に見られる卍など)
右回りの藤房=藤八戻(富嶽の神風)
晴山講の富士参詣 絵馬と天狗と卍の向き
石碑には紙垂(しで)やワラジが結ばれていた。
(中の茶屋の向い側には、現埼玉県の卍講碑が二つあり。)
この碑は、栃木県栃木市の大平山にある富士講碑「(右卍) 登山百八度 晴山永行(大正九年)」の
翌年に建てられたもので、この年だけで三度の富士登山をしたことがわかる。
交通機関が整備されても、栃木県から一年に三度は大変そうです。
翌年に建てられたもので、この年だけで三度の富士登山をしたことがわかる。
交通機関が整備されても、栃木県から一年に三度は大変そうです。
これは晴山永行の娘が願主となって、講の定宿である上紋司家に奉納したもの。
大勢の講員がいる中で、道案内・旅の神である「 天狗 」の旗を持つ者だけが
右卍の傘印として描かれている。
右卍の傘印として描かれている。
この天狗は、小御嶽神社を象徴した天狗であるとともに旅の無事を願ったものだと思われます。
「道案内=講の先達」であれば、大勢の中で一人だけが右卍である理由がわかります。
または、特定の条件(登山三十三回&内八海&御中道八回など)をクリアした大先達が
おもに右卍を使用したと言うのであれば、富士講碑やマネキに右卍が多いことも理解できます。
または、特定の条件(登山三十三回&内八海&御中道八回など)をクリアした大先達が
おもに右卍を使用したと言うのであれば、富士講碑やマネキに右卍が多いことも理解できます。
(ここは等々力警部に登場してもらって「よし! わかった!!」と言ってもらいたい。)
しかし、他の卍講を見てみると、大先達のマネキに左卍を使ったものがあり、
この天狗にしても、大山講に由来する天狗と明確に区別がつきません。
この天狗にしても、大山講に由来する天狗と明確に区別がつきません。
一枚の絵馬からすべてがわかるはずはないので、他にもこの絵馬から何かを連想するとすれば、
足利にある「赤富士御影」(富士山の木型)を思い出します。
足利にある「赤富士御影」(富士山の木型)を思い出します。
足利の赤富士御影 右ラインの中央には、(三つの先端がある岩?)で表わした小御嶽石尊と
思われる彫刻がある。 晴山講の絵馬にある背景の富士山にも右のライン中央が少し盛り上がって
見えます。(決めつけからくる確定バイアスですが。)
思われる彫刻がある。 晴山講の絵馬にある背景の富士山にも右のライン中央が少し盛り上がって
見えます。(決めつけからくる確定バイアスですが。)
足利の 富士山 手描き絵馬
岡田商店が戦前に販売していた、富士山の手描き小絵馬 (五十部町新屋敷)
シンプルに描かれた富士山ですが、とても力強く感じられます。
それは、この絵馬の神社幕と富士山が暗示しているデザインを
無意識のうちに読み取っているから?かも知れませんね。
無意識のうちに読み取っているから?かも知れませんね。
八坂神社(島田町)で見られる、向い天狗もあり。
色数・手数をいかに減らしてリアルに描き上げるかがポイントのようです。
絵馬づくり道具の見慣れないカンナ
泥絵の具や膠(にかわ)が残ったままというのも貴重ですね。
粉末の顔料を膠水で溶いて使用しましたが、その膠がとても臭かったそうです。
型紙から書き取り作成途中のままになった「 両手図 」
富士山図も含めて、約20種類の型紙が残っているそうです。
手描きではありませんが、現在も大手神社の絵馬と「なで守」が販売されています。
また、店内では美術館などにも貸し出された8種類の手描き絵馬を見ることが出来ました。
(非売品)
また、店内では美術館などにも貸し出された8種類の手描き絵馬を見ることが出来ました。
(非売品)
これらの貴重な手描き絵馬と並んで、雑誌「Memo 男の部屋」の付録
人生必勝絵馬(鬼に金棒人生に金棒)が飾られているのは、かなりの違和感あり。
この絵馬の絵師は水木しげる先生なので、気持ちはよくわかるのですが…
人生必勝絵馬(鬼に金棒人生に金棒)が飾られているのは、かなりの違和感あり。
この絵馬の絵師は水木しげる先生なので、気持ちはよくわかるのですが…
足利では、浅間神社(田中町)の絵馬が初山祭りの日に入手可能ですが一年に一度であり
絵柄は富士山ではありませんので、岡田商店さんが昭和10年代に販売していた富士山絵馬が
足利で作られた最後の富士山絵馬のようです。
絵柄は富士山ではありませんので、岡田商店さんが昭和10年代に販売していた富士山絵馬が
足利で作られた最後の富士山絵馬のようです。
足利 女浅間神社で富士登山
石段を登り切った場所を、吉田口登山道の起点と仮定します。
ここから南へと真っ直ぐに進み、右旋して神殿に到着すれば
そこはもう、吉田口登山道の終点(標高3740m)です。
ここから南へと真っ直ぐに進み、右旋して神殿に到着すれば
そこはもう、吉田口登山道の終点(標高3740m)です。
もう少し詳しく見て行きましょう。
苔虫命は国歌の歌詞を思わせますし、桜大刀自命やサクヤヒメは
神木の桜を感じさせますね。
神木の桜を感じさせますね。
女浅間の「小御岳石尊大権現碑」のとなりに建つ富士講碑には、石塔の正面に
穴があいています。
個人的にはこれを、天狗が鼻を突き刺してあけた「天狗穴」と考えます。
小御岳石尊大権現碑がなくても、石塔に丸い穴をあけるだけで
富士山五合目を暗示出来るよという、江戸時代の人からのメッセージ。
穴があいています。
個人的にはこれを、天狗が鼻を突き刺してあけた「天狗穴」と考えます。
小御岳石尊大権現碑がなくても、石塔に丸い穴をあけるだけで
富士山五合目を暗示出来るよという、江戸時代の人からのメッセージ。
山頂の神殿「足利冨士 浅間神社」が富士山の山頂
足利では下浅間だけでなく、家のすぐ裏にある山頂の仙元神社であっても
一度も登ったことがないという女性(お婆さま)の話しも聞きます。
一度も登ったことがないという女性(お婆さま)の話しも聞きます。
北口御師 毘沙門屋さんの板マネキ
富士講社とは檀家関係を持ち、講員を相手に宿泊や食事などのお世話を生業とした。
(祈祷・お祓い・占いなど)を通して、富士の神様と信者との仲立ちをしていました。
大広間や神殿のカベには、目に付いた物だけでも44枚の板マネキがあり
栃木県足利郡の板マネキは小俣村と三和村の2枚のみでした。
しかし、新田源道純の知行地である新田郡宝泉村大字下田島内には
旗本 桑山家の知行地もあり、桑山家が知行する両毛五ヶ村の地頭役を
務めていたのが、足利郡大月村の名主でした。
現在の群馬県太田市で収穫した桑山家の年貢米も、足利郡大月村の名主を通して
渡良瀬川の猿田河岸から江戸へと送られていたわけです。
44点中の32枚が北関東の万字講のマネキです。
赤万字31枚(右卍が25、左卍が6枚 )
白万字 1枚
新田源道純の知行地がある、群馬県新田郡のものが21枚と得に多く栃木県足利郡の板マネキは小俣村と三和村の2枚のみでした。
旗本 桑山家の知行地もあり、桑山家が知行する両毛五ヶ村の地頭役を
務めていたのが、足利郡大月村の名主でした。
渡良瀬川の猿田河岸から江戸へと送られていたわけです。
富士山信仰が盛んな新田郡と、古くから富士山信仰が伝わっていた足利郡の
大月村とは、信仰の上でも互いに影響を受けていたのかも知れませんね。
大月村とは、信仰の上でも互いに影響を受けていたのかも知れませんね。