足利大月村に見る 卍講と村上講

 嘉永6年2月、檀家廻りで大月村に訪れた富士御師への勧進差出(22名分の初穂料)の筆頭者が
 安藤氏であることが文書の記録によりわかっている。




 大月村の安藤氏と聞くと、天道山、日月神社、天道宮、天の祭り、天満宮などを連想する。
 また、足利田中町浅間神社にある卍講の富士講碑では、大月村世話人として安藤姓が見られる。




東耕地の仙元宮でわかることを羅列すると

嘉永元年に奉納された石灯篭の連名に福地氏は見られるが、安藤氏は見られない。

嘉永6年から、2年後に奉納された村上講の水盤に安藤氏は見られない。

・「奉修行八大仙元大菩薩」や「浅間参拾参社」で奉納された木札が残る。

 (八社修業(八社参り)や三十三浅間の内のひとつであった。)

長谷川角行の水行修行の土地であると伝わる。

・角行の法脈より、冨士垢離(水行)を行えば、富士登山と同じ御利益と伝えられていた。



 以上のことから、嘉永年間の大月村では、卍講として富士登山をした安藤氏などのグループ。
 村上講として統制を受けた、福地氏などのグループがあったと考える。




安政4年、富士山御師 小沢久太夫が檀家回り訪れた際の村方寄付金、壱分弐朱(約3万円)は、
太夫の忰が訪れた際の五倍の金額である。納めた人数がわからないので正確には比較出来ないが、
御師(=御祈祷師)としての役割に金額の差が出たのかも知れません。



イメージ 1

田中町浅間山にある胎内洞穴は、富士修験者ゆかりの地と言われています。



イメージ 2

60年で遷宮する神社などからもわかるように、年が一巡すると新しい御神威が得られると考えたので、
富士山御縁年である庚申年は、富士山信仰の盛り上がりも最高潮になったでしょう。



「足利富士山で御祈祷してください。」と言われて、イヤですと答える富士山御師は居なかったのでは
ないでしょうか。

足利大月村と富士山御師

イメージ 1


足利大月町 東耕地 仙元宮神社

安政2年(1855)村上講 奉納の水盤




水盤の奉納者連名にある福地姓は、村上派の影響が強い足利市大月町や佐野市高山町に見かける。




イメージ 2


仙元宮内にある村上講の藤紋は、扶桑教少講義 福地氏の板マネキ。





このほか、福富町の卍講でも福地氏を見ますが、これらは山梨県富士上吉田の旧称「福地村」から
来ている地名姓なのか、ただの偶然なのかは不明。






 大月町には、市指定重要文化財の古文書(3520点)があり、文書の記録から嘉永安政年間に
足利大月村に来ていた富士山御師は、小沢久太夫であったとわかる。

太夫は、上吉田中宿 東町の北口御師。明治初期には廃業しており現存しない。
現存する御師中雁丸の近く(左友~しきだや付近)に宿坊を構えていました。


 嘉永6年2月には、久太夫の伜利太郎が名代として大月村を訪れている。この7年後は富士山御縁年
ですので、庚申年が近づくにつれ、檀家参りも徐々に忙しくなったことでしょう。




この古文書は、大月手紙の会により文書目録(非売品)になっており、いくつかの図書館で閲覧
することができるようです。







太夫(目録内の資料番号 956・1736・3266)

世界遺産で見る 足利の村上講

 

 登録名称「富士山‐信仰の対象と芸術の源泉」として、世界遺産に登録された 6月26日から
 今日で半年。

 栃木県足利市からでも、白い富士の山頂がはっきり見えるベストシーズンになりました。。



富士山信仰に興味はないという方。 夏に登山したから、富士山はもういいかな~。と考えている
方々のごく身近なところにも、世界遺産につながるご当地富士が眠っているかも知れません。



たとえば、足利の村上講の話。

イメージ 1

世界文化遺産 構成資産のひとつ、静岡県 人穴富士講遺跡にある村上講の石碑塔には
足利の村上講社を見ることができる。
 
 栃木県足利郡 樺崎村講社
   同県同郡 大月村講社


古くなってしまった村上講の石塔を、長谷川角行の法脈 14世が明治19年に再建したもの。
20講以上の講社名のなかには、東京 神徳講社や多摩郡 檜原講社なども見られる。


(ちなみに、戦前ですので樺崎村は「椛崎村」。)


イメージ 2

山梨県 北口本宮冨士浅間神社の藤紋は、枝のデザインに特徴あり。
境内では、この藤紋を数えきれないほど見る。



イメージ 3

明治になり、12世 村上徳永の門人が立ち上げた 村上神徳講のマネキ。



イメージ 4

15世から16代 妙清に。(元祖御法家の紙マネキ)

北口開山は長谷川角行


 世→代は、お家騒動もあったとかなかっとか




イメージ 5

静岡県 人穴にある御法家(富士御法教)に描かれる藤紋。





これらの藤紋について富士吉田で聞くと、村上藤丸講の講紋とか、藤の丸講の紋であると言われます。






 村上光晴の定紋とも言われる、この藤巴紋を見て個人的に感じるのは以下のイメージ。


   藤=冨士山(藤山)

   巴=巴卍 (仏教美術に見られる卍など)

   右回りの藤房=藤八戻(富嶽の神風)

 
 藤山 藤八戻 富嶽の神風などは、富士講古文書などに見られる言葉です。
 足利市に伝わるオミヌキには、「八戻の風」で終わる詩歌が見られ、
 これは富嶽の神風に相当するものだと思います。




足利では、定紋は使わないという旧家の話を聞いたことがあるので、
村上光晴の定紋が藤巴紋であっても、自身は替紋を使ったかも。




 足利の大月・樺崎の両村が登場する、天明3年の巻物「月ガン居士公事の巻」も、意外と
事実の部分があるかも知れませんね。

晴山講の富士参詣 絵馬と天狗と卍の向き

江戸時代中期、富士山北口登山道の茶屋として開業した「中の茶屋」(山梨県富士吉田市)に
建てられている、野州晴山講「(右卍) 登山百十一度 晴山永行(大正十年)」の富士講碑。

イメージ 1

石碑には紙垂(しで)やワラジが結ばれていた。

  (中の茶屋の向い側には、現埼玉県の卍講碑が二つあり。)


この碑は、栃木県栃木市の大平山にある富士講碑「(右卍) 登山百八度 晴山永行(大正九年)」の
翌年に建てられたもので、この年だけで三度の富士登山をしたことがわかる。
交通機関が整備されても、栃木県から一年に三度は大変そうです。




 富士山麓「中の茶屋」に建つ晴山講の石碑は、北口御師 上文司による書。

 大平山の石碑は、最後の宇都宮藩主 戸田忠友が、宇都宮二荒山神社宮司をしていたときの書。


  (日光の二荒山神社明治26年まで、最後の会津藩松平容保日光東照宮宮司と兼務した。)



 
 晴山講の人達が、栃木~山梨県まで歩いて富士登山をしていた頃の様子がわかる
「晴山講富士参詣絵馬(明治33年)」が、御師 上文司家に所蔵されている。

 これは晴山永行の娘が願主となって、講の定宿である上紋司家に奉納したもの。


イメージ 2

大勢の講員がいる中で、道案内・旅の神である「 天狗 」の旗を持つ者だけが
右卍の傘印として描かれている。

この天狗は、小御嶽神社を象徴した天狗であるとともに旅の無事を願ったものだと思われます。



「道案内=講の先達」であれば、大勢の中で一人だけが右卍である理由がわかります。
または、特定の条件(登山三十三回&内八海&御中道八回など)をクリアした大先達が
おもに右卍を使用したと言うのであれば、富士講碑やマネキに右卍が多いことも理解できます。


(ここは等々力警部に登場してもらって「よし! わかった!!」と言ってもらいたい。)




しかし、他の卍講を見てみると、大先達のマネキに左卍を使ったものがあり、
この天狗にしても、大山講に由来する天狗と明確に区別がつきません。



 一枚の絵馬からすべてがわかるはずはないので、他にもこの絵馬から何かを連想するとすれば、
足利にある「赤富士御影」(富士山の木型)を思い出します。

足利の赤富士御影 右ラインの中央には、(三つの先端がある岩?)で表わした小御嶽石尊と
思われる彫刻がある。 晴山講の絵馬にある背景の富士山にも右のライン中央が少し盛り上がって
見えます。(決めつけからくる確定バイアスですが。)


富士塚を見ても小御嶽の石碑・石祠があることから、富士参詣において小御嶽神社
ひとつの目標地点だったのでしょう。

どんなに悪天候であっても、三合目近くの富士山遥拝所女人天井(女性の登山が黙認された所)より
上には登りたいと考えたでしょうし。

足利の 富士山 手描き絵馬

イメージ 1

岡田商店が戦前に販売していた、富士山の手描き小絵馬 (五十部町新屋敷)

シンプルに描かれた富士山ですが、とても力強く感じられます。


それは、この絵馬の神社幕と富士山が暗示しているデザインを
無意識のうちに読み取っているから?かも知れませんね。



イメージ 2

八坂神社(島田町)で見られる、向い天狗もあり。

色数・手数をいかに減らしてリアルに描き上げるかがポイントのようです。



イメージ 3

絵馬づくり道具の見慣れないカンナ



イメージ 4

泥絵の具や膠(にかわ)が残ったままというのも貴重ですね。

左奥の顔料は、放射性セシウムの吸着資材として高い除染能力があるといわれ
北斎の浮世絵の魅力にもなっているプルシアンブルー(紺青)でしょうか。


粉末の顔料を膠水で溶いて使用しましたが、その膠がとても臭かったそうです。



イメージ 5

型紙から書き取り作成途中のままになった「 両手図 」

富士山図も含めて、約20種類の型紙が残っているそうです。


手描きではありませんが、現在も大手神社の絵馬と「なで守」が販売されています。
また、店内では美術館などにも貸し出された8種類の手描き絵馬を見ることが出来ました。
(非売品)



これらの貴重な手描き絵馬と並んで、雑誌「Memo 男の部屋」の付録
人生必勝絵馬(鬼に金棒人生に金棒)が飾られているのは、かなりの違和感あり。
この絵馬の絵師は水木しげる先生なので、気持ちはよくわかるのですが…



足利では、浅間神社田中町)の絵馬が初山祭りの日に入手可能ですが一年に一度であり
絵柄は富士山ではありませんので、岡田商店さんが昭和10年代に販売していた富士山絵馬が
足利で作られた最後の富士山絵馬のようです。







ps, 1573年7月18日 信長に攻められ、15代将軍 足利義昭が降伏
   きょうは室町幕府が滅んでから440年。

足利 女浅間神社で富士登山

数分で山頂に到着してしまう女浅間神社では、登山自体の楽しさを感じる
ことは出来ませんが、少しでも富士登山の気分を味わうために考えて
富士講碑が配置されています。



 女浅間神社富士登山ガイド。

浅間神社の一の鳥居を、富士吉田市金鳥居に見立てると
 石段を登りながら左に曲がるところが(上吉田 上宿)
 右へ曲がって石段を登りきると(北口本宮 冨士浅間神社

石段を登り切った場所を、吉田口登山道の起点と仮定します。
ここから南へと真っ直ぐに進み、右旋して神殿に到着すれば
そこはもう、吉田口登山道の終点(標高3740m)です。

実際の富士山では、この場所に久須志神社(浅間大社奥宮の末社)が
建っています。



もう少し詳しく見て行きましょう。

イメージ 1


南のはしの右カーブにある「小御岳石尊大権現」の碑が
富士山五合目の冨士小御嶽神社になります。

御嶽神社の祭神は、大山祇神オオヤマツミ)の娘「磐長姫命」と
イワナガヒメノミコト)の小神 「桜大刀自命」「苔虫命」です。

木花開耶姫コノハナサクヤヒメ)の姉神で、不老長生の神だそうです。

苔虫命は国歌の歌詞を思わせますし、桜大刀自命やサクヤヒメは
神木の桜を感じさせますね。



女浅間の「小御岳石尊大権現碑」のとなりに建つ富士講碑には、石塔の正面に
穴があいています。
個人的にはこれを、天狗が鼻を突き刺してあけた「天狗穴」と考えます。
小御岳石尊大権現碑がなくても、石塔に丸い穴をあけるだけで
富士山五合目を暗示出来るよという、江戸時代の人からのメッセージ。


冨士小御嶽神社は冨士天狗宮とも称して、小御嶽正真坊という天狗がいるとされ
七月一日の開山祭では、大天狗・小天狗に扮して「お道開き」という神事を行います。

 


 右カーブを少し登った「烏帽子岩」の碑は、富士山七合五勺(現在の八合目)で
富士山の八合目にある元祖室は、富士行者の食行身禄が祭られる聖地になっています。

山梨県の河口湖郷土資料館「富士博物館」には、足利市樺崎町にあった富士講
奉納した食行身禄像が展示されていますし、樺崎町の冨士仙元神社でも身禄像を
収蔵しています。

また、足利には八合目での天拝修業に使う御鏡を写した図があり
これは扶桑教が頒布した写し図のひとつだと思われます。




 山頂の神殿「足利冨士 浅間神社」が富士山の山頂

ここ下浅間だけで富士登山が体験できるのは、お年寄りや女性など富士登山
出来ない人の為の富士塚であるとともに、是より先の上浅間が女人禁制だった
のかもしれませんね。

足利では下浅間だけでなく、家のすぐ裏にある山頂の仙元神社であっても
一度も登ったことがないという女性(お婆さま)の話しも聞きます。

北口御師 毘沙門屋さんの板マネキ

赤万字の書かれた板マネキ(講の広告)は、館林市でも見られますが
なんといっても圧巻なのは、山梨県富士吉田市上吉田にある北口御師
毘沙門屋さんでしょう。

イメージ 1


イメージ 2


上吉田の町が現在地に移転して来た元亀三年(1572)の「吉田之新宿帳」にも
記録が残る毘沙門屋さんは、先々代まで御師として活動されていた本御師宅です。

イメージ 4


ここでいう御師とは、京都の吉田家や白川家などから神職としての許可をうけて
富士講社とは檀家関係を持ち、講員を相手に宿泊や食事などのお世話を生業とした。

夏場二ヵ月間の登山時期が終わると、富士山信仰の布教活動や檀家廻りを行い
(祈祷・お祓い・占いなど)を通して、富士の神様と信者との仲立ちをしていました。


イメージ 3



大広間や神殿のカベには、目に付いた物だけでも44枚の板マネキがあり
44点中の32枚が北関東の万字講のマネキです。

 赤万字31枚(右卍が25、左卍が6枚 )
白万字 1枚


新田源道純の知行地がある、群馬県新田郡のものが21枚と得に多く
栃木県足利郡の板マネキは小俣村と三和村の2枚のみでした。

しかし、新田源道純の知行地である新田郡宝泉村大字下田島内には
旗本 桑山家の知行地もあり、桑山家が知行する両毛五ヶ村の地頭役を
務めていたのが、足利郡大月村の名主でした。

現在の群馬県太田市で収穫した桑山家の年貢米も、足利郡大月村の名主を通して
渡良瀬川の猿田河岸から江戸へと送られていたわけです。



富士山信仰が盛んな新田郡と、古くから富士山信仰が伝わっていた足利郡の
大月村とは、信仰の上でも互いに影響を受けていたのかも知れませんね。