渡良瀬川 北猿田の余談
天明の災害
水運関係者にとっての火山の恐怖とは、天明3年(1783)浅間山の噴火だろう。足利でも数日にわたって砂が降り、昼も暗く、田畑が埋まったという記録がのこる。砂が降るという天変地異と天明飢饉、利根川の河床上昇による洪水など災害が続いた。渡良瀬川の河岸関係者も、利根川の河床上昇には悩まされたことだろう。
寛政12年(1800)は60年に一度の庚申年であり、浅間社で祈願する人も増えたと思う。記号化された漢字に急々如律令と書かれた護符を求める人もいたかも知れない。足利の周辺では御伝え(折本)の裏が護符集になっていたり、護符集と合わせて保管されていたりするのを見る。
徳蔵寺の五百羅漢堂は、文化10年(1813)に建立されたもの。北猿田の河岸問屋「萬屋」の十一代吉右衛門が中心となり5軒の問屋で奉納したという。五百十体ある羅漢尊の寄進者の中には、天明の災害で親族を喪った人もいるだろう。
北猿田の石工の話し
八木宿の例幣使街道沿いにある母衣輪神社境内にある安政2年(1855)の石祠には、猿田川岸石工の名がある。問屋「問忠」の石灯篭を作った石工と同じ苗字。仕入れや出荷に河岸は適していたのだろう。(川岸=河岸)
船大工が作った舟の話し
北猿田の船大工が作った舟が、猿田町上之宮神社に近い若草町龍蔵寺の地蔵堂にいまも残されている。
龍蔵寺本堂を建てた家の子孫であり、カスリーン台風ではこの舟を実際に使ったという方に聞いた話し。
「家にいて膝丈まで水が上がって来たので、舟と竹竿を持ち出した。 舟には乗ったことがなかったのでうまく使えなかった。」
「三笠通りの花見に使いたいので譲ってほしいと言われたこともあった。勧農の四つの地域にあるのに、うちだけが手放すわけにはいかないと言って断った。」
足利の奥戸村のように、普段から足として舟を使っていた地域ならば問題なかっただろうが、川から離れた場所に舟だけが配備されていても災害時に役立てるのは難しかったようだ。
御社の下に舟がおかれているところもあるが、足利で揚舟を使うことはもうないだろう。将来の災害のリスクを考えたうえで、足利を選び工場を建てたという企業の話も聞く。
三笠通りの桜の話し
龍蔵寺で古老に聞いた話に出てくる、三笠通りの川沿いには千本の桜が植えられていた。
子供の頃に三笠通りの花見で舟に乗ったという方の話しによると「木の舟以外なかった頃で、桜の枝が舟の上まで垂れて綺麗だった。枝垂れ桜だったと思う。」とのこと。
土手の桜は川に枝が垂れるので、枝垂れ桜かどうかは疑わしいが、舟からの花見体験は記憶に残っているそうだ。
花見という訳ではないが、群馬県板倉町の『揚舟 谷田川めぐり』が今年も五月からはじまるので、揚舟に乗ってみたい方には良いかもしれない。「浅瀬でも優れた運搬能力」を体感できると思う。また、会場のはずれのほうには浅間社の祠もある。
河岸と江戸道の話し
北猿田河岸に近い勧農村龍蔵寺にある元文5年(1740)の庚申塔には「右 江戸道」の道標が見られる。河岸から船に乗れば江戸まで下るのは早い。
下る途中にある古河や本行徳河岸(茨城や千葉)へ行くのも同様。
足利市寺岡町の例幣使街道沿いにある寛政3年(1791)の道標にも
「江戸道 館林道」とある。ここからは奥戸河岸や高橋河岸が近い。
・鳥川の倉賀野河岸 倉賀野宿の例幣使街道沿いの道標。
・鬼怒川の阿久津河岸 船玉神社の石灯篭台石にある道標。
(龍蔵寺の話し)
龍蔵寺は足利義兼の家臣であった小野家子孫の菩提寺。義兼の入寂に殉死したと伝わる鳴動山十騎の小野兵衛友義を祖とするそうだ。
龍蔵寺は一町の土地に竹林や小作人を持ち、そこからあがる収益で本堂の茅葺屋根を修繕していたが、GHQの政策によって修繕費用が賄えなくなり、雨漏りする本堂は解体したという。いまの姿からは想像もつかないが、当時の寺であれば北猿田河岸への道標や水害対策の舟が残っていても不思議はない。
渡良瀬川 北猿田の話し
北猿田の河岸問屋「問武」を描いた明治時代の版画をみると、富士山が良く見える。
また絵に「ASHIKAGA-GORI(足利郡)」「KITASARUDA」とあり。
岩井山赤城神社の石碑には、問屋主人の小泉武八郎の名と共に「サルダ」と刻まれているので「KITASARUDA」で間違いない。
足利にある江戸時代の庚申塔に「さるたかし」や「さるたかしみち」と刻まれた道標が見られるが、これも「さるだかし(猿田河岸)」と読むのだろう。
のちの堤防の川幅を広げる河川改修により、この絵に描かれた河岸問屋も含めて一帯は河川敷になっている。南猿田も南端の木の数軒を除いて移転対象となり河川敷になった。
北猿田の旧村社 上之宮神社の祭神は、伊弉諾命(いざなぎ)・伊弉冉命(いざなみ)・瓊瓊杵命(ににぎ)の三柱であったが、明治の初めに徳蔵寺よりも東にあった下之宮を合祀したため「天照大神・木花開耶姫・猿田彦大神」もあわせて祀られている。下之宮で祀られていた木花開耶姫が来たことで夫婦神そろうのであるが、どういうわけか現在は瓊瓊杵命だけがハブられてしまっている。
天照大神は「問忠」の灯篭の例からすると、河岸の水運を祈願していたのかもしれない。
境内に「岩永姫命」(冨士小御嶽神社)や「烏帽子磐 身禄霊神」(富士山7合5勺)の石碑。
絵の中では上流右手に見える岩井山には赤城神社あり。
かつて岩井山の赤城神社は、岩井村の中にあって勧濃村の飛び地であったという。祭神は、磐筒男命・磐筒女命。
ここで少し祭神の関係を神話で説明すると
伊弉諾命(いざなぎ) 父
伊弉冉命(いざなみ) 母
瓊瓊杵命(ににぎ)娘の孫 *星宮神社・母衣輪神社などで祀られる
磐長姫(いわながひめ)嫁の姉 *冨士小御嶽神社などで祀られる
(猿田彦大神) *孫を出迎えて先導。猿田村の由来とも(諸説あり)
軻遇突智(かぐつち) 息子 *母に火傷を負わせ父に斬り殺される
大山祇神 *息子が切り殺されたときにうまれる。嫁の父
磐裂神・根裂神 *殺された息子の血よりうまれる。明星(金星)
磐筒男命・磐筒女命 *磐裂神・根裂神の子。岩井山の赤城神社など
令和元年
..が出現した胎内洞穴
船津胎内樹型
江戸末期の御胎内入り口のイメージは宝珠とでも
絵の中には安産祈願の品となるタスキとロウソク、洞穴内を這うための膝当て草鞋などが見られる。
入口に社殿が建てられた明治期でもイメージは変わらず
祭神は木花咲耶姫命。のちに吉田胎内が開かれると冨士北口元祖胎内
をうたう
焼けて黒い
母の胎内にて潜る石 イメージは
奥に木花咲耶姫が祀られている
父の胎内の奥に子安観音 前にはニニギ像
約20mの母の胎内、約15mの父の胎内、総延長約68mという複合型溶岩樹型である船津胎内は、食行身禄の弟子と言われる日行青山が発見したという。青山の没後に改称して丸藤講となり八代先達日行星山が発見整備したのが吉田胎内になる。
角行を重視する人は、船津胎内の発見者を角行としたようだ。
船津・吉田の両胎内には、約20mの母の胎内があり、安産祈願の現世利益とともに富士登山の前に身を清める場所であるとした。ニニギとコノハナサクヤヒメの夫婦神が祀られ安産を願うという行為は、足利などで見られる隣接する星宮・浅間社などでも同様に祈願されていたと思う。
修験の禁止が明治五年。足利の胎内洞穴で加持祈祷が行われ始めたのが吉田洞穴の発見よりも遅いということはないだろう。船津ほど古ければ「御胎内」以外の呼称があったと思う、「角行の霊跡」などはその有力候補か。 角行の「跡」が他にあるならば、加持祈祷は恐れ多いと考えたとしても、なにかしらの伝承が残りそうな気がする。
もっとも御師と関係をもつ当時の人で、足利に伝わる「角行の霊跡」などを公言する者などはいなかったことだろう。
足利浅間山 浅間大菩薩が出現した胎内洞穴
同じくらいの高さのピークが3つ連なり、中央北面に御胎内がある。
浅間大菩薩が出現した場所が御胎内。
中に入って胎内巡りができる訳でもなく、過去に行われていた加持祈祷で焼けた岩穴があるだけ。行場の焼けた岩ならば小俣町岩切山生満不動尊(平将門の調伏で知られる世尊寺の僧などが修行した場所)でも見られる。御胎内では焼けているのが岩穴であるのがポイント。
胎内洞穴の説明文にある、吉田と船津2つの胎内樹型(世界遺産)は
どのような場所なのか、場所であったのか
吉田胎内樹型
入り口から横穴(溶岩トンネル&溶岩樹型)14.5mは、胎内祭の日に公開されている。
この御胎内のポイントは明治25年 日行星山が整備した父の胎内と母の胎内。
竪穴樹型の入り口のイメージは陰部
むかしは高さが約40cmあり父・母の胎内に入ることが出来たそうですが、現在は人が入れるほどの開口はない。
現在と言っても穴を降りたのは随分むかしだが、3mの竪穴を登っている
ときに「セミみたいだ」と感じたことを覚えている。
溶岩の下、ニニギやコノハナサクヤヒメを祀った横穴を這って何十mもの
胎内巡りをすればもっと違う感覚があったかも知れない。
足利の富士信仰 赤卍講の星祭り
きょうは冬至の日ということで、星まつりの話し
かつて足利の赤卍講では、冬至の日に「星祭り」と呼ばれる占いが行われていました。
信者が紙に願い事を書き、その紙を行者がお焚きあげをして燃え残りかたによって吉凶を占ったという。
お焚きあげによる占いをなぜ「星祭り」と呼ぶのか、その理由は伝えられていないが、足利北部に見る浅間社と高尾山との関係は気になるところ。
(星まつり)が行われている。
また金星や北斗七星を虚空蔵さまとしていた。
「星に願いを…」みたいなこともあったのだろう。
上記のような仏教由来のようなもの以外にも、富士山信仰由来のものとして、田中町女浅間の石碑に次のような歌が見られる。
御来光が登ってくる空に、まだ白い月が残っている
毎年ではないが、明けの明星も見られたか。
ブロッケン現象が現れればさらに良し。
冬至のあとはクリスマス。
藪漕ぎしなくても行けるこの時期にしか登らない石尊山の浅間神社に参って来た。小松沢(ココファーム・ワイナリーの奥)から往復1時間半もかからないが、山への取りつきが一番の危険個所であり整備された登山道は無いので地元の里山経験者向き。長尾氏家臣の南氏の城址であるとされる。
光害のない時代、現在の星座も分からないくらい星が見えたことだろう。
先達 正田正行が探し当てた、コノシロ伝承地 「 癸生浅間神社 」
栃木の民話に「娘の身代わりにヒツギに魚を詰めて焼き、偽りの葬儀をした」という物語があるが、
このときに焼いた魚がコノシロであるという。
サクヤ姫が妊娠を告げるとニニギは疑い「一宿哉妊 是非我子必國神之子」と言い放つ。
「國神之子なら産不幸 天神之御子なら幸」と誓約をして、サクヤ姫は火中出産する。
火中で無事出産し貞操を証明したサクヤ姫(しかしこの一件でニニギに愛想尽かす。)
ニニギの使者から逃げるサクヤ姫を、臼作りをしていた翁が臼の中にかくまって助ける。
オオヤマツミは、柩にコノシロを詰めて焼き、サクヤ姫は死んだと偽りニニギをあざむく。
サクヤ姫は父から富士山を譲り受けて、この地を離れて富士の神となる。
娘の身代わりとしてコノシロを焼いた場所が「下野国のケブ村」であったという。
星宮神社の祭神をニニギと見なし、隣接する浅間・星宮社も見られたのに反して、夫婦神の
物語はとても残念な内容である。
室八島のコノシロについて
コノシロの話をして聞かせた河合曾良の旅日記には、ケブ村の場所が書き残されている。
ケブ村にコノシロ伝承地があるという話しも聞き及んでいたかも知れない。
当時広く知れ渡っていたコノシロの伝承であるが、必大は兄竹洞からも聞かされていたのだろう。
小野姓人見氏の必大は、富士山にある稲荷の神を信じていたようだ。
正田正行を開祖と刻む 北口登山八十八度碑(明治13年)
承応2(1653)年にコノシロ伝承地を探しに来た正田氏とはちょっと違うようだ。
ここで見る薬師瑠璃光如来の石碑について
富士山頂の薬師如来
鹿島金山と聞けば、足利周辺の人々は地元の山や神社を連想すると思う。
ここでは裏薬師として、富士塚の向きとは関係なく北口を示すのだろう。
北口一合五勺目にあった定禅院の本尊は、富士山頂の薬師如来を勧請したという伝承があった。
富士参詣者が、室の八島から竹葉を持ち帰っていた頃は、参道前の薬師堂を詣でていたのかも知れない。