終戦前(昭和20年頃)の足利富士
浅間神社 初山講のようす。
物資が乏しく大変な時代でも、大変賑わっていたことがわかります。
戦時中は、カラフルな足利
銘仙を着ることは許されなかったので
黒く染めなおして、モンペに作り変えたりもしたようです。
ペタンコされている赤ちゃんも、67歳に
今年はお孫さんと一緒に、お参りをするのかも知れません。
この66日後 広島に…
足利周辺でも、宇都宮・太田などが空襲により甚大な被害を受けました。
宇都宮には、日本の5大航空廠のひとつ「宇都宮陸軍飛行場」があり
群馬県の
中島飛行機などで製造された飛行機を、各地へ送り出してた。
太田金山由来の「呑竜」部隊も、この基地を出たのち(特攻転用で)消えて行った。
(桐生の飛行場、足利地内でも投下されたという話が伝わります。)
昭和20年 8月14日、
ポツダム宣言を受諾すると連合国へ通告をしたが、その日の深夜 0時30分頃
B‐24
爆撃機による伊勢崎市・
熊谷市への空襲があり、伊勢崎は市街地の約40%を焼失した。
この空襲開始時刻は、すでに
終戦の当日であり、
玉音放送の11時間半前であった。