仙元宮の藤紋 絵馬の藤紋

足利市大月町 仙元宮神社に奉納された絵馬の中には
「卍紋」と、その左右に「片手藤」紋が描かれている。

この絵馬に描かれているのは、足利大月町の仙元宮か
または、富士山麓の北口仙元社(北口本宮冨士浅間神社)であるのか?


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現在の北口本宮冨士浅間神社とは、江戸の時代に荒廃してしまっていた北口仙元社を
富士行者 村上光清が私財を投げ打って再興した神社であり
享保8年(1723)頃から多く同行を募り、元文3年(1738) 頃に成し遂げた偉業である。

現在、この神社にある建造物で藤紋(村上光清定紋)があるのは、光清の改修したもの。
なかには明治初頭の廃仏毀釈で、取り壊されてしまった物もあるという。

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拝殿の軒下、本殿の軒下や向拝柱には「光清定紋」、同行(仙元信仰の信者)の「卍紋」が
数多く見られ、神社への参道脇にも同行が奉納した卍紋入りの石灯篭が並びます。



足利市大月町にある「仙元宮神社」・「せんげん神社」にも
村上光清定紋に酷似した藤紋が見られる。
(完全に同一ではないが、光清に関係していることは確実)

イメージ 4仙元宮神社


イメージ 5せんげん神社


「一つ藤巴」の藤の枝が右巻きになっており、現代風の名前を付けるならば
「右廻り一つ藤巴」と言ったところでしょう。



<大月町の絵馬は、なぜ「片手藤」が描かれているのか?>

 ① 実際に神社で「片手藤」紋が併用されていた。
 ② 絵師が「光清の藤紋」を知らなかった。
 ③ キレイに見せるため、あえてシンプルなデザインを選んだ。

家紋の中でも、特にデザインの種類が多いと言われる藤紋は
実物を知らないと(藤丸→藤巴→片手藤)辺りで妥協するのかも。



<絵馬に描かれた仙元宮が、どこの仙元神社なのか?>

 北口本宮冨士浅間神社には、村上光清の同行が使用する卍紋があり、
 足利地内にも、卍紋を使用する講社が多くある。

足利周辺には、「黒万字」「赤万字」「白万字」が佐野・足利・館林・太田・伊勢崎などに
また、これに混在して「逆万字(右万字)」の講紋が見られます。
(卍と逆卍の石碑に、同じ人の名前が見られたりもする。)

栃木市の大平山・館林市桐生市太田市など広範囲に渡って卍紋・逆卍紋が見られる。


足利・北口本宮のどちらも「藤紋」と「万字紋」を使用するため
絵馬の神社がどちらか分からないが、社殿の作り・旗立竿の作りの軽さから見ると
足利の仙元宮神社か。

参拝をしている男性の着物には、「丸の内に一つ引き」の家紋が見える。
たとえば、大月村在住の北辰一刀流を極めた剣豪は「丸に一つ引き」の家紋を用いた、
この人のような「藩士」であれば、幼い子を連れて北口本宮まで参拝に出かけることが
可能だったのかも知れない。 
(平民は足利から富士山まで、往復の全行程を歩いて参拝した。)

ちなみに、女浅間神社にある「逆卍 富士登山三十三度」の石碑(天保10年)には
大月村の上記剣客の一族の名が「世話人」として残されている。




<参考>

村上光清(村上派)の流れを受け継いだとする、宗教法人「富士教」(信徒2000名)では
富士山の三峰とセットになった藤紋を使用しています。
(足利大月町には、これに似た講紋が書かれた板マネキあり)


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東京都日本橋にある、とある神社。
足利大月町の水盤に使われているものと同様の藤紋。